2月半ば、淡路島にある「兼高かおる旅の資料館」が、月末で閉館するという情報を知った。都築響一の著書『珍日本紀行』でその存在を知ってから、いつか行きたいと思っていた施設であった。リミットまであと半月。頭の中に「いつ行くの?今でしょ!」というセリフがパッと浮かび、私はそのまま新幹線に乗って西へ向かうことにした。

兼高かおると言えば、1959~90年までの約30年続いた長寿番組「兼高かおる世界の旅」で知られるジャーナリストである。実のところを言えば、私はその番組の存在を知ってはいたが、見たことがない。日曜の朝はテレビ朝日の「ドラえもん」と「題名のない音楽会」を見ていたので、TBSでその後の時間帯に放送されていた「世界の旅」まで気が回らなかったのである。それなのになぜ気になっていたかというと、兼高かおると私は同じ2月29日生まれだという、ただその一点のみであった。

兼高かおる旅の資料館外観
兼高かおる旅の資料館外観

神戸・三宮からバスで1時間余り。「兼高かおる旅の資料館」は「淡路ワールドパークONOKORO」という遊園地の中にある。日曜の遊園地は親子連れで賑わっており、この中に兼高かおるの資料館があってもなかなか入る人は少ないだろうな……と容易に想像はついた。下手をすると親世代も知らないのではないか、兼高かおる。

資料館の前では、「世界の旅」の協賛であったパンナム(パンアメリカン航空)の飛行機模型がゆっくり回転していた。資料館の閉館後、この飛行機はどこに行くのであろうか。

フィルム編集作業をする兼高かおるマネキン
フィルム編集作業をする兼高かおるマネキン

閉館のニュースを聞きつけてか、資料館には年配の方が多く訪れていた。入口で閉館記念のポストカード2枚を受け取って中に入ると、フィルムの編集作業をする兼高かおるやジャングルで撮影するカメラマンのマネキンが設置されていた。私は『珍日本紀行』に掲載されていた「館内解説をしてくれる、気球に乗った兼高かおるロボット」を見ることを密かに楽しみにしていたのだが、館内のどこにも見当たらなかった。壊れて撤去されてしまったのだろうか。

更に中に進むと、兼高かおるが番組内で着用していた衣装や、世界各地で集めた人形、民芸品が所狭しと陳列されていた。ケニアの象の足でできたテーブルの脚、エクアドルのヒバラ族の縮首(干し首)のレプリカ、エメラルドでできたロバの置物、ミクロネシア連邦の夜ばい棒……。展示品はどれも魅力的なものばかりであった。

ケニアの象の足でできたテーブルの脚、象の耳でできたバッグ
ケニアの象の足でできたテーブルの脚、象の耳でできたバッグ
エメラルドのロバ
エメラルドのロバ
ミクロネシア連邦の夜ばい棒(彫刻の違いで、誰が来たかがわかる)
ミクロネシア連邦の夜ばい棒(彫刻の違いで、誰が来たかがわかる)

閉館の理由は老朽化のためということであったが、全体的に古い印象は感じられない。老朽化というのは表向きで、昨年、兼高かおるが90歳で亡くなったことが閉館の大きな要因なのでは……と思ったが、「世界の旅」の傑作選を鑑賞できるビデオコーナーに至って、その考えは変わった。ブラウン管のモニターがすっかり焼き付いており、パリの映像を見ていても「見たい国の番号を押してください」というメニュー表示がクッキリ残ってしまっているのである。確かにここは古い施設なのだ。

館内のビデオモニター
館内のビデオモニター

一旦外に出て、遊園地内にある世界の有名な建物を25分の1サイズで再現した「ミニチュアワールド」や、「赤ずきん」「ジャックと豆の木」などの人形が設置された森を散策した後、「世界の旅」撮影に同行したカメラマンによる館内展示ガイドに参加するため、再び資料館に戻った。

ガイドが始まる13時になると、資料館入口は押すな押すなの大混雑であった。皆それぞれ兼高かおるに思い入れの深い人たちなのだろう。番組を見ていない私は若干の後ろめたさも感じつつ、列の最後尾についた。

撮影の都合上同じ衣装を1週間着続けなければならないので、夜に宿で洗濯していたこと、館内に展示されている人形の位置や角度などは兼高かおる自身がこだわって設置していたこと、実は写真に撮られるのが嫌いだったことなど、さまざまな話を聞くことができた。

衣装
衣装
角度にこだわって置かれた人形
角度にこだわって置かれた人形

そして兼高かおるの誕生日の前日、2月28日に資料館は閉館した。古いものがなくなっていくのは仕方のないことだ。しかし兼高かおる本人がこだわって作り上げたあの空間が無くなってしまうのは、残念なことでもある。それと同時に、今各地にある昭和の面影を残す施設は、「そのうち行こう」ではなく今行かなければならない、という思いが一層強くなった。

絵・撮影・文=オギリマサホ

梅雨が明けて暑さが厳しくなってきた。例年であればマスクのマの字も話題に上らない季節であるが、今年は街行く人のほとんどがマスク姿である。マスク姿になっているのは生身の人間ばかりではない。こちらのコラムでは3月に、薬局の店頭にいるパンダ人形・ニーハオシンシンのマスク姿を調査した。その後4月16日に全国に緊急事態宣言が発令されると、シンシンばかりでなく、全国の銅像や店頭人形がこぞってマスクを着けはじめたのである。不要不急の外出を控えなければならない身としては、直接その姿を見に行くこともままならず、毎日のように地域ニュースで報じられる「○○像がマスク姿に」という情報をちまちまと収集していた。
新型コロナウイルスは、街の様子をも変えてしまった。どこの薬局にも「マスクの入荷はありません」と書かれた張り紙が掲示され、一方で街行く人のほとんどがマスクをしている。そのような状況の中、とある薬局の店先にいるパンダの人形が目に留まった。以前通りがかった時は、確かこのパンダはボーダーシャツに吊りズボンというオシャレな格好をしていたはずだ。それが、白衣に大きなマスク姿になっている。やはりこのご時世なので、この格好になったのだろうか。他の薬局のパンダはどうなっているのだろう。
私が子どもだった1970年代の終わり頃。街のあちこちには電話ボックスがあり、据え付けられている電話機は黄色だった。実はこの電話ボックスに、私は少し恐怖心を覚えていた。黄色い電話機は100円玉を入れるとお釣りが出ない。「間違えたら後戻りできない感」が、子ども時代の私には何とも怖く感じられた。しかしそれ以上に恐怖だったのが、電話機の上部に取り付けられていた注意書きのプレートであった。
私には食べたことのないものがあった。「すあま」。関東以外の方には馴染みのない食品であろうが、和菓子の一種である。そもそも私は和菓子が好きだ。それなのに何故すあまに手が伸びなかったかというと、「存在意義がよくわからない」からである。
私は夜の街が好きだ。と言っても、夜に営業する店に行くのが好きな訳ではない。きらびやかな照明に彩られた繁華街の風景を、ただぼんやり眺めるのが好きなだけである。逆に山奥の夜はあまり好きではない。真っ暗で怖いからだ。バイクで遠出をする時も、夜は必ず街に宿泊し、その土地で最も栄えている街をぶらつくことが多い。灯りに囲まれている方が安心できるのだ。光のある方にフラフラと引き寄せられる私は、前世が蛾か何かだったのかも知れない。