小野先生
小野正弘 先生
国語学者。明治大学文学部教授。「三省堂現代新国語辞典 第六版」の編集主幹。専門は、日本語の歴史(語彙・文字・意味)。

「ことば」は出来事の端っこ!?

小野先生 : 「ことば」は、奈良時代には用例がみられますが、実際にはそのずっと前から日本にあることば(和語)だと考えられます。
「言葉」と書くのは当て字。「葉」を当てることで、木の枝に葉が茂っているイメージを、たくさんの「ことば」と重ね合わせたのだ、という説があります。
ただ、語源的には「言端」、もっと言えば「事端」のほうが、正しくとらえられると考えています。
「事」(出来事)は、「言」(話すこと)と密接な関係があります。自分が目にした出来事、もっと言えば心のなかで思った事は、言わなければ、それが起こらなかったことになってしまう可能性があります。

筆者 : うーん、なんとなくわかる気がします。例えば、仲が良いと思っていた友だちが、裏切り行為をしたとします。知らないところで悪口を言っていたり、恋人にちょっかいを出していたり……。
それを口に出して咎めてしまうと、裏切り行為がふたりの間で共有され、事実としてはっきりとしてしまいます。口に出した時点で物事が動き出し、ケンカになるかもしれないし、もう以前のような関係には戻れなくなります。
「ことば」にしなければ、少なくとも表面上は何事もなかったかのように、仲の良い友だちでいられたのに……。

小野先生 : なるほど、おもしろいですね。「ことば」は出来事を顕在化しますね。
恨み言や愛情が「口をついて出てくる」という表現がありますね。積年の不満、あるいは好意があふれるように、「ことば」が自然と出てくるわけです。
実際には存在している「事」はぼう大な氷山のようなもので、人が直接触れる「ことば」は、海面に出た一角のように小さな「先端」なのでしょう。

筆者 : 「ことば」の本意は出来事の先端、「事端」ということですね。

8月27日は松竹映画「男はつらいよ」の第1作が公開された記念するべき日。寅さんを敬愛してやまない筆者の強い希望で、あの名ゼリフ「それを言っちゃあ、おしまいよ」を、国語学者の小野正弘先生に解説してもらった。短いことばのなかに込められた人間関係を保つ知恵と優しさを知ると、映画の深みがぐっと増してくる。

「ことば」は重い。しかしその種類は変わっている!?

小野先生 : それだけに、「ことば」は重いものですよ。言ったとおりに行動する「有言実行」の人は、尊敬の対象になります。
反対に「不言実行」または「沈黙は金なり」とも言います。以前だと、軽々しく「ことば」に出さないことが良しとされていたこともあります。

筆者 : 特に男性には、そんな美徳が求められたように思います。寡黙でシャイ、ときに不器用だけれど実直な高倉健さんのような男性、憧れた人は多かったでしょう。

小野先生 : 父親が家族を統率する家父長的な価値観が残っていたのでしょう。画一的で小さなコミュニテイのなかでは、口に出さなくても意図が通じる関係性が好まれました。しかし、これからの時代は、そうも言っていられなくなります。

筆者 : 多様性の時代ですね。世界中の文化や考え方が入っていますし、スマホやSNSが浸透して、テレビ番組などみんなで共有する情報や話題が少なくなりました。

小野先生 : 世代間の違いも広がっているでしょうね。さまざまな価値観が共存する社会では、「ことば」ではっきりと物事を示さなければ、意思疎通ができません。
多様な出自、人種の人が国をつくってきた、米国流の文化とみることもできます。日本でも多様性が高まるなか、いわゆる「コミュ力」(コミュニケーション能力)、あるいはプレゼンテーション能力が、求められています。かつてと違った意味で、やはり「ことば」は重いのです。

筆者 : 改めて「ことば」を見直して、今まさに過渡期にあることを実感します。
だからこそ、「出来事の端っこ」としての日本的な「ことば」の役割を理解することが、大切だと感じました。

小野先生 : 物事のすべてを「ことば」で表現しようとすると、とんでもない時間と労力がかかってしまいます。
明快なコミュニケーションしているときほど、物事を「ことば」で単純化していることに気づけると良いでしょう。伝えきれないこと、理解できないことがあるという前提に立てば、価値観の違う相手にも寛容になれます。

まとめ

日本語には中国からの外来語「漢語」が多くあるが、「ことば」は日本古来の「和語」。それだけに日本人独特の感覚が、込められている。

「言葉」と書くのは当て字で、本来は「言端」、語源的には「事端」が適切。「ことば」はいわば氷山の一角で、ぼう大な「事」(出来事、事実)を短い音声や文字で表す「先端」に過ぎない。

かつては、軽々しく口に出さないことが「ことば」の重みであったが、社会の多様化が進む現代では、価値観が違う人にも伝わる明確な「ことば」が求められる。

取材・文=小越建典(ソルバ!)