ニッポンの面影とは

ニッポンの面影とは? それは郷愁を感じる日本の原風景的なもの。古くても新しくても、見たこともなくても、変わらない人間の暮らしや営みを感じ、懐かしさを覚える風景がある。そんな場所を探して歩いてみたい。

ところで日本の原風景は減少の一途だ。たとえば民俗学者の宮本常一(*1)がとくに精力的に歩いたころ。昭和30~40年ごろだが、その当時、宮本が撮った写真をみると、まだまだ原風景的なものが多く残っていたように思う。それは人々の労働や暮らしをも含んだものだった。

それ以降、原風景はだんだんと「失われた風景」となっていく。半世紀前ならすぐ出合えた風景は、今ではめったにみられない。だからこの連載では都心からそれほど遠くない近場の地方が多くなると思う。

取り上げる条件をいくつか。

その一 俗化している場所は避ける。
その二 茅か や葺ぶ き屋根の家は減少の一途だが、保存されている家は避ける。
その三 公共交通機関を利用できる。

 

*1…宮本常一(つねいち)
1907〜81年。民俗学者で1930年代から亡くなるまで日本各地を歩いてフィールドワークし続けた。本人没後に出版された写真集が『宮本常一が撮った昭和の情景』(上・下巻 毎日新聞社)で、昭和30年から同55年までの写真が収められている。

縄文時代から耕されてきた地

連載一回目は山梨県旧秋山村にある富岡。2005年に合併して上野原市になったが、その秋山村の東の端っこに富岡の棚田がある。秋山温泉の近く、といったほうがわかりやすいか。

山梨県の玄関口になる中央本線の上野原駅で下車。駅のホームからはかつて与謝野晶子も愛でた桂川が目に入る。川向こうには、かつて狼のろし煙台だいがあった急峻な鶴島御前山が見える。秋山村といえば、20年くらい前に仲間数人で倉岳山へ登った帰りに、下りたことがあるが、その時は、久しぶりにヒッチハイクを敢行し、なんとか帰路についた。

それ以来の秋山村である。上野原市ではどうもピンと来ない。上野原駅から秋山温泉の送迎バスで温泉へノンストップ。ほんの20分ほどで秋山川を渡って温泉へ着いた。

一緒に乗ったのはほとんど地元のじいさんばあさんたち。バスを降りるとまっすぐ温泉の建物へ吸い込まれていった。こちらは温泉には後で入ることにして、カメラを片手に安寺沢の集落のほうへ林道を歩く。途中から右折して富岡の棚田のほうへと向かった。やや傾斜のある道を上がっていくと、イノシシやシカが入らないように柵があった。と、その脇に勢いよく流れる用水路。これが棚田を棚田たらしめている命の水だろうか。棚田のほうへと流れている。その先で眺望が開け、目の前に富岡の棚田が現れた。

棚田の上部から。全部で100枚ほどある。奥に桜井地区の段々畑がみえる。
棚田の上部から。全部で100枚ほどある。奥に桜井地区の段々畑がみえる。

山間の中にそこだけぽっかりと開けたような田んぼ。ちょうど田植えが終わった時期で、水が一面に張ってある。東京近郊では千葉県の大山千枚田や埼玉県横瀬の棚田ほど有名ではないが、これぞ求めていた風景である。

この田んぼは古く縄文時代の初期から開墾されてきたところで、昔は水稲ではなく畑として耕されてきた。縄文の初期、中期、後期と三期に分かれ拓かれてきた場所だ。一番上の縄文後期の棚田から下のほうへと歩いてみた。主のいない家もある。放棄された田んぼはあまりないように見えるが、どうだろうか。あとで知ったが、ここでは放棄されると池にするそうだ。

田植えの終わった直後。左手の上部の丘にはお墓がいくつもある。
田植えの終わった直後。左手の上部の丘にはお墓がいくつもある。
壊れかかった土壁の蔵。富岡には古い家がそれほど多くはない。
壊れかかった土壁の蔵。富岡には古い家がそれほど多くはない。

秋山川対岸左手に富岡と同じような高さの畑が見える。桜井の段々畑だ。秋山大橋を渡り県道35号を西へ歩く。

「こっちは水がなくてね、畑しかできないんですよ」

地元のおばあさんの話では、以前は下の秋山川からポンプで水を汲み上げて稲作をやったというが、電気代はかかるし、ポンプの修理なども必要なので、結局、稲作はやめて畑作に戻ったという。

いつも祖先に見守られている

2週間後、代々富岡に住んでいる方に話を聞きに再度棚田を訪ねた。水が張っていた田んぼはすっかり緑に覆われていた。稲の生育は速いものだ。

「稲穂が垂れて黄金色に染まった風景がいいとか、水を湛えた田植えのときがいいとか勝手にいうけどね、田植えや稲刈りを手伝ってほしいね。大変なんですよ」

私にはちょっぴり痛い言葉だった。

この方は六十代半ば。兼業農家である。そもそも富岡ではすべて兼業である。専業では生活ができないので、勤めに出ているか、この地で別の仕事に就いている。

「なんとか助け合って棚田も作り、暮らしている。ここにへばりついて生きている」

現在、富岡で暮らす戸数は52戸とか。そのうち棚田を耕作している家は34戸だそうだ。

「市販の米の5倍ほど高い米を食べている。コストのかかったお米です。できるならやめたいと思っている方もけっこういるようです」

棚田はコストはかかるし米作りの大変さものしかかる。やめたいのは容易に想像がつく。いまや他の地域の棚田では農家ではなく、オーナー制度などで命脈を保っているところも多い。

安寺沢の集落内に残る明治時代に建てられた小学校の分教場跡。現在は公民館として利用。
安寺沢の集落内に残る明治時代に建てられた小学校の分教場跡。現在は公民館として利用。
棚田まで用水を引くが、その安寺沢川の取水口。
棚田まで用水を引くが、その安寺沢川の取水口。

富岡集落に入る秋山川にかかる橋のたもとに「富岡開田記念碑」と刻まれた大きな石碑が立っている。そこにはこんなことが書いてあった。

「昭和7年から畑作から水田への変換を望む声が多く、10年には安寺沢川から水を引くために2400mの水路を作る計画が完成、戦争や財政事情で一旦停止。補助金では足りず、50戸の家が1戸あたり20人の奉仕義務人夫を出して工事を開始。19年、水路はほぼ完成し、戦後の食糧難に貢献……」

先人の勤労奉仕など、様々な苦労によって今の棚田がある。現在も棚田の維持管理の作業は続く。石碑をみれば、容易にはやめられないことがわかる。

哲学者の内山節(*2)は『「里」という思想』(新潮選書)のなかで、タイトルの「里」の定義をこう書いている。

「ただし『里』とは村を意味してはいない。それは自分が還っていきたい場所、あるいは自分の存在の確かさがみつけられる場所である。」

富岡の人にとっての棚田は、この「里」のような面もあるのかもしれない。大変でもそうやすやすと手放したりはしない。棚田のなかを歩いていると、東側に小高い丘がみえた。

そこは棚田が一望できる最高の場所で、そこには富岡の祖先が代々眠るお墓が立っているのだという。棚田はそうして祖先にいつも見守られながら、今も昔の面影を残している。

 

*2…内山節(たかし)
1950年〜。哲学者。1970年代から趣味の釣りが縁となり、群馬県上野村と東京との二重生活を開始する。立教大学大学院教授など歴任、現在はNPO法人・森づくりフォーラム代表理事。

富岡の棚田(山梨県上野原市)

【行き方】
JR中央本線上野原駅から富士急バス「無生野」行き23分の「富岡入口」下車。ただし平日は午前の一便だけなので使えない。土・日・祝は午後の便もある。平日に行くなら秋山温泉の無料送迎バスが月曜から土曜まで1日3便ほど出ている。棚田は秋山温泉の近く。

【雑記帳】
安寺沢川沿いに安寺沢の集落にはバス便などはない。分教場跡までは秋山温泉から徒歩1時間程度。安寺沢川の取水口は手前にあるが、林道から下りる階段の場所を探すのは至難のワザだろう。秋山温泉は10:00〜21:00、第4月休。プールもある。入浴料820円。レストランが併設されている。

文・写真=清野 明
『散歩の達人』2021年8月号より