時代を超えて庶民に安くておいしい食事を提供。神保町で3代続く小料理屋

大正13年(1924)、長谷部可貫さんが開いた『季節料理 はせ部』。現在は、その孫の智晴さんが3代目を務めている。開店当時は気軽に食べられる食事とともにお酒が楽しめる店だったそうだ。
ゴルフが趣味の智晴さんは休日に郊外のコースでプレイを楽しむそう。
ゴルフが趣味の智晴さんは休日に郊外のコースでプレイを楽しむそう。

「関東大震災の翌年に祖母と結婚した祖父がここに店を開いたと聞いています。戦後の物資が乏しい時代に2代目を継いだ父は、20年くらい魚屋と仕出しをやっていて、その後、再び店内で食事ができる店になりました」と智晴さん。

魚屋をやっていたこともあり、今と同様に魚中心の定食と野菜の煮物などがメニューの中心になった。智晴さんが代を継いだのは、今から約40年前。大学を卒業してすぐ料理の道に入ったそうだ。

「本当はね、大学を卒業してから証券会社に勤めたかったんです。だけど、私が長男だったし、叔父さんや叔母さんに『お前が継がなかったら店がなくなっちゃうんだよ』って脅されて(笑)。でも半分、自分が継ぐことになるだろうなと思っていたような気がします。子供のころから店の手伝いをしていたし、それが嫌いではなかったのでね」と、微笑む智晴さんだ。

通りからでも目立つ看板。入り口を飾る鉢植えの植物が実家のようでアットホームな雰囲気。
通りからでも目立つ看板。入り口を飾る鉢植えの植物が実家のようでアットホームな雰囲気。

店を継ぐことになってからは、父も子もなくすべて現場での叩きあげ。当時は築地市場での買い出し、仕込み、接客まで、あらゆることを教えてもらった。

「この頃の仲買いさんは、一見お断りの世界だから。ひとりで行っても誰も相手にしてくれないし、どこで何を買ったらいいのかわからないしね。お父さんと市場に行っても認めてもらうには時間がかかりました」。

この店を守ってくれている神棚。
この店を守ってくれている神棚。

最初に下ろした魚はアジとイワシ。徐々に大きな魚も捌けるようになっていった。ひとつずつ仕事を覚えてきたある日、町内会長だった父が夜の寄り合いに出かけるため、智晴さんにひとりで店を任せたという。

「夜は営業時間も長く、メニュー数も多くて手が込んだものもある。それを任せてくれるということは、一人前として認めてもらえたんだなと思いました。あの日のことは今でも忘れないですね」と、智晴さんは当時を思い出して言った。そして今なお、父であり師匠の意志をつないでいる。

ババロアみたいにトロけるうまさ! まぐろ定食で来店するたびに諸國漫遊してるみたい

店内に入ると、壁にメニューの札が並んでいる。定食は魚料理を中心に10品で、795円と895円しかない。「祖父の代から付き合いのある豊洲の仲買いさんから仕入れているから、魚は旨いですよ」と智晴さん。

例年、10月くらいから戻りガツオに、秋はサンマの塩焼きが登場することもある。たら子定食は炙りたらこだそう。これにも惹かれる〜!
例年、10月くらいから戻りガツオに、秋はサンマの塩焼きが登場することもある。たら子定食は炙りたらこだそう。これにも惹かれる〜!

取材したのは8月の初めだったので、「初ガツオがギリギリ食えるけどね、今日の本マグロは旨いよ。うちのは冷凍ものじゃないですから」と、おすすめしてくださったのでさっそくいただいてみることにした。

まぐろ刺身定食795円。トゥルンとピンク色をした赤身と目が合った(ような気がした)。あ、コレ絶対おいしいやつ!
まぐろ刺身定食795円。トゥルンとピンク色をした赤身と目が合った(ような気がした)。あ、コレ絶対おいしいやつ!

今日は長崎で水揚げされた本マグロだ。いいですか、みなさん。本マグロの刺身が5切れついて795円ですからね。ご飯は祖父の代からお付き合いのある茨城・稲敷郡河内町『田沼商店』で仕入れるコシヒカリ。生わかめがたっぷり入ったお味噌汁に、切り干し大根煮と漬物がつく。

まずはひと切れ。ほどよい脂が乗っていて美味。
まずはひと切れ。ほどよい脂が乗っていて美味。

赤身の方を食べたら、ババロアのように滑らかですっと溶けるおいしさ。注文前の「795円だもんなあ……」って筆者の心の声が一瞬でミュートする。すみませーん、ちょっと疑っていました。このクオリティはすごい!

「もしかしたら、百貨店の地下で買ったら2000円くらいするかもしれないですね。今出した部位は尾の方ですけどいい味でしょう? 頭のほうはもっと脂が乗っているけど、そこまで好みに応えられないので好きな部位が当たったらいいよねってことで(笑)」。

ただし、まぐろ定食はいつも本マグロが出てくるというわけではない。マグロは回遊魚なのでさまざまな地域で水揚げされるため、その日に味と品質がベストなマグロが食べられるというわけだ。

毎朝5時に起きて豊洲市場へ仕入れに行き、下ごしらえをして昼は仕入れたマグロを切る智晴さん。
毎朝5時に起きて豊洲市場へ仕入れに行き、下ごしらえをして昼は仕入れたマグロを切る智晴さん。

「この値段はね、父が決めたの。だから、同じ値段で大間の本マグロが出ることだってありますよ。今年は3〜4月だったかな」。えっ、あの大間のマグロが定食に!?

「そうですよ。マグロはほどよく脂が乗っているものがいいから、夏場は九州とか南の方、冬場は東北の方が旨いんですよね。ほかの魚も同じでそのときいちばん旨そうな産地のものを仕入れてくるんだけど、なんでかまぐろ定食しか食べない人もいるんですよ(笑)。確かに産地や種類で味が変わるからその違いも面白いんだけどね」。

うーん、その楽しみ方もちょっとわかる気がする。刺身のクオリティの高さはわかったので、次は焼き魚や煮魚も食べてみたいなあ。

今も昔も東京の中心。江戸の習慣を残しつつ人がにぎわい、グルメで便利な神保町

神田明神の熊手を入り口の対角に飾り、お客様を招き入れる。
神田明神の熊手を入り口の対角に飾り、お客様を招き入れる。

有名大学や専門学校のキャンパスのほか、名だたる企業も多数ひしめく神保町。飲食店も多く、質の高いランチが低価格で食べられる都内屈指のグルメスポットだ。代々、神保町で暮らす智晴さんにとってこの街はどう映っているのだろう。

「そりゃあ、東京の真ん中にあってどこへ行くのも便利だしね、ご存知の通り下町ですから人もいいです。代々住んでいる人も多いし、江戸から続く三社祭や未だに毎月“町会費”を集める習慣も残っているんですよ」。

智晴さんは続ける。「近頃、町内に大きなマンションができて新しい人が増えてきました。でも、みんな温かく受け入れていますよ。大きな通りにある店は入れ替わりが激しいんだけど、うちみたいな代々続く家業をしている人も多いし、路地に入るとわずかに長屋が残っています」。

客席は広いテーブル席、小上がり、カウンターがある。
客席は広いテーブル席、小上がり、カウンターがある。

『はせ部』に来るのはほとんど常連で、周辺にある出版社や企業で働く人たちだ。夜も魚料理をはじめ四季折々の料理が並ぶ。「夜はアラカルトでやっています。でも刺身や焼き魚、煮魚、野菜の煮物盛り合わせなどがあるのでライス・味噌汁330円をプラスしたら定食になる。お酒も各種取り揃えていますよ」とのこと。

美濃焼の徳利に入った麦焼酎・荒城の月、希少な日本酒・獺祭、秩父にある蒸溜所で作り世界から注目を集めるイチローズ モルト&グレーン ホワイトラベルなどが揃う。
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荒城の月は警視庁のおみやげ売り場で売られているボトルで置いている。取り締まられそうで酔えないかも!?
荒城の月は警視庁のおみやげ売り場で売られているボトルで置いている。取り締まられそうで酔えないかも!?

季節のおいしい食材を食べて飲んで楽しめる『季節料理 はせ部』。神保町は安くておいしい店が多いから、散歩しながらビビッと感じた店をはしごするのも楽しそうだ。

住所:東京都千代田区神田神保町1-39/営業時間:11:30〜13:30・17:00〜21:00/定休日:土・日・祝/アクセス:地下鉄神保町駅から徒歩2分

構成=アート・サプライ 取材・文・撮影=パンチ広沢