東京の下町らしいツユの濃さ

『寅さん』があるのは、東武亀戸線小村井駅から歩いて8分ほどの明治通り沿い。車の交通量は多く、かつては道沿いに多くの飲食店があったのだろうが、今はほとんどが閉まっている。そんな寂れたところで『寅さん』は2019年にオープンした。

ここの売りは、なんといってもツユ。濃くてパンチのきいたツユは、今ではなかなか味わえない。

なぜに東京の下町方面でこういうツユが多いのか? まず、もともとの江戸そばのツユが、かえしの強めなものだったから、ということがある。そしてそれ以外に、体を使う職人が多かったため味が濃くなった、ということもあったようだ。

ともあれ、『寅さん』のツユは絶品だ。ガツンとくるファーストインパクト。食べ進めるうち、天ぷらの油が加わり、味わいはより太くなる。ツユに染まって旨味を存分にたたえたゆで麺もいい。さらに天ぷらは揚げたて。汁を吸ってトロッとしながら、サクッとした部分も残した天ぷらがまたうまいのだ。減りつつあるから礼賛するわけではない。立ち食いそばのツユは、濃いものに限るのだ。

ゲソ天そば500円。天もツユもアチアチ。
ゲソ天そば500円。天もツユもアチアチ。

こんなそばを作るのだから、店主の石川喜男さんは、大の立ち食いそば好きである。もともと地元出身の石川さんは、すぐ近くの八広で大衆割烹の店『とり若』を営んでいる。しかし5年ほど前から会社の飲み会など、大口の宴会の数が減り始めてきたことに危機感を覚え、違う業態の飲食店をやろうと考え始めた。

店主の石川喜男さん。
店主の石川喜男さん。

あの名店との気になる関係

そんな話を行きつけの立ち食いそば店でしていたところ、なんと、その店主が「引退するから、ここで店をやってみてはどうか」と言ってくれたのだ。

その立ち食いそば店が、ガツンと濃いツユが有名で、多くのファンを持ちながら2018年に閉店した押上の「えちご」だった。

しかし、ドタンバで契約内容が折り合わず、「えちご」の場所で店を始めることはかなわなかった。それでもあきらめきれずに物件を探していたところ、現在の場所で営業していたラーメンの「どさん子」が閉店することになり、居抜きでオープンすることになったのだという。ちなみにその「どさん子」の店主も、昔からの顔見知り。「えちご」の件も「どさん子」の件もそうだが、下町は人と人とのつながりが強いのだ。

言われてみれば、店内の造作がラーメン店っぽい。
言われてみれば、店内の造作がラーメン店っぽい。

それで始めたのが『寅さん』。もともと「えちご」リスペクトなのだからして、当然のようにツユはガツンと濃いものにしたのだ。ちなみに小村井駅のすぐそばにあった「びっくりそば」も、東京で一番と言われるほどに黒く濃いツユだった(2016年に閉店)。なんと素晴らしいエリアだろうか。

「えちご」ファンが認めてくれた

『寅さん』の立地は通り沿いとはいえ、目の前にバス停があって車に乗っていると見えにくい。一見、新しく商売を始めるには不利な立地に思えるが、意外や早いうちからお客さんに恵まれたらしい。

昼の定食はかき揚げそばにスクランブルエッグ丼で650円。ピーマン天はおまけ。
昼の定食はかき揚げそばにスクランブルエッグ丼で650円。ピーマン天はおまけ。

実は近隣の「えちご」ファンが、閉店後に『寅さん』に流れてきてくれたのだ。いつも食べていたあの「えちご」がなくなってしまった。しかし、チェーン店のそばではゆるくて食べる気にはなれない……と思っていたところに新しい店がオープン。しかも食べてみると「えちご」のあの味。かくして、ニューフェイスでありながら、『寅さん』は早いうちから地元客の支持を得られたのだ。

ダシのきいたこの玉子焼きが最高。そっけないが、日常食はこれでいいのだ。
ダシのきいたこの玉子焼きが最高。そっけないが、日常食はこれでいいのだ。

営業時間はいろいろ模索した結果、朝が6時から9時、昼が11時半から13時、夜は居酒屋営業で10時から翌5時までと、けっこう変則的な営業になっている。そして朝と夜は石川さんの弟、昼は両親が店に立っているのだが、朝と昼のそばは、ちょっと違う。昼になると、おまけの天ぷらをつけてくれるのだ。石川さんは「古い人間なもので、サービスしたくなっちゃうんですよ」と笑っていたけれど、なんだか、その気持ちがうれしい。

そばは草加にある富士製麺のゆで麺を使用。ゴワッとした麺がいい。
そばは草加にある富士製麺のゆで麺を使用。ゴワッとした麺がいい。

すぐ近くにスカイツリータワーがそびえ立っているが、小村井周辺は行きにくいし、寂れている。石川さんも「陸の孤島」と言って笑っていた。それでもここには、とびきりうまい下町の味と、人と人とのつながりが残っているのだ。

住所:東京都墨田区京島3-68-4/営業時間:6:00~9:00・11:30~13:00・22:00~5:00(火は6:00~9:00・11:30~13:00、日は22:00~5:00)/定休日:水/アクセス:東武鉄道亀戸線小村井駅から徒歩8分

取材・撮影・文=本橋隆司