終戦後の街で靴磨きをしている子どもたち
やっぱりそれは、戦後に端を発したものでした。
終戦後の街を写したモノクロ写真などを見ると、子どもが靴磨きをしている場面をよく見かけますね。あれは、戦争で親を亡くした孤児が、生きるためにやっていました。元手をかけずにすぐに始められる数少ない現金収入の手立てのひとつだったのです。行きかう進駐軍兵士の軍靴を磨く少年たちは、「シューシャインボーイ」と呼ばれ、年配の人のなかには、この言葉に宿るさびしい響きを知っている人も多いかと思います。東京だと、上野駅前などでたくさん働いていました。子どもだけでなく、戦災で焼け出された大人もいました。
そのころはヤミ市が盛んでしたから、戦災者のなかには、道で靴を磨くんではなく、物を売る人達もいました。露店です。これも手っ取り早く始められたんですね。どんどんと数がふえていって、昭和24年には東京都内だけで8000軒近くまで膨れ上がります。露店は、ぜんぶ公道の上です。衛生上、交通上の問題とともに、出店に際し膨大な利ザヤをとっていた人々の問題も出てきました。これはまずいと思ったGHQは、露店を取り払うよう指令を出し、昭和26年には道路上から、すっかり追い払われてしまいました。
ただ、指令から除外された業種がいくつかあったのです。その一つが、「靴磨き」でした。利権ではなく、ささやかに日々の糧を得るだけの仕事だとお上も認め、見逃したのでしょう。路上の露店が駅前商店街に商売の座を譲っていったようにもいきませんでした。舗装の行きわたらない時代、砂埃や泥に靴が汚れやすかった街角では、必要な仕事だったのです。
ニュー新橋ビル前に座る婆ちゃん
こうして以後、世のなかが安定した昭和中期であっても、路上職人たちの伝統は細々とですが続きました。ただ、公道上で商売をするためには、道路使用許可を警察にもらい、自治体からも道路占用許可ももらわねばなりません。じつはこれが両方とも、ずいぶん昔に新規許可がおりなくなってしまっています。
つまり、従事者は減る一方で、今も路上にわずかに残っている方は皆、数十年は続ける大ベテランばかりということ。たとえば新橋駅前にもつい数年前まで数人の方がいましたが、いまは駅前の、ニュー新橋ビル前に座る婆ちゃんお一人です。私は色々とお話を聞いたことがあります。
あの方は、ニュー新橋ビル竣工とおなじ昭和46年から靴磨きをされています。もう半世紀ですね。暑い日も寒い日も地べたにしっかりと座り、仕事を続けてこられました。「靴をみればどんな人かわかるのよ」、と言っていたのを思い出します。
私は客を待つんじゃないの……
ところが少し前、お姿が見えなくなってしまいました。もう90歳、体調がすぐれないのだろうか……と思っていたところ、交番横においてあった彼女の道具類に、撤去を警告する行政からの張り紙が、べたべたと貼りつけてあるではないですか。最近突然やってきて物を置いたのではありません。どんな経緯であそこで商売してきたか、いったん落ち着いて考えてみてほしかったですね。
綺麗に整備された駅前では、たんに邪魔だったのでしょう。それでも我々の現在のこの社会は、どういう人達が働いて作ってきたものなのか、一度でも思い返してみたら、ああはしなかったと思えてなりません。
――でも、安心しました。しばらくして、また婆ちゃんは復帰したのです。彼女の言葉が忘れられません。
「私は客を待つんじゃないの。人を待ってるの」
自分で決めた生き方を自分に課して生きている人は必ず、簡単だけど芯をつく強い言葉をもっています。街の先輩を大事にできる街の余白。いくら街を刷新していってもその気持ちは残ってほしい、私はそう思っています。
文=フリート横田