人気歌手・市丸姐さんのお屋敷として誕生
老舗の人形屋や問屋街のある浅草橋駅から両国方面へ歩くこと5分。立ち並ぶビルの中に、ひっそりとあるお屋敷こそ今回の主役。戦後すぐに建てられ、70年以上の歴史があるこの建物は、ある人気歌手のために建てられた。
昭和の流行歌手、市丸。通称、江戸小唄の市丸姐さん。長野県松本市に生まれ、浅間温泉での芸者見習いである半玉の後、上京。浅草で売れっ子の芸者となり、浅草四人組のひとりとして名を馳せた。
当時は芸者から歌手として活躍する鶯芸者が流行りはじめの頃。市丸姐さんの人気に目をつけデビューさせたのが、蓄音機に耳を傾ける犬のトレードマークで知られているビクター。市丸姐さんはビクターの看板歌手としてその人気を不動のものとし、人気を二分した小唄勝太郎とともに「市勝時代」と称されるまでになる。
このお屋敷はビクターが市丸姐さんのために建てたもの。一方、ビクターも市丸姐さんにビルを建ててもらったといわれている。
主人亡き後しばらくは空き家に
ルーサイトギャラリーの代表である米山明子さんは、この屋敷の隣家で生まれ4歳まで暮らしていた。小さい頃、この屋根に登って遊んでいるところを女中さんに叱られたこともあるという。また市丸さんは祖母と仲良しで、一緒に麻雀などをしていた。子供ながらに、綺麗な方だったという記憶がある。
ちなみに米山さんのお祖母様は、東京六花街といわれた花街・柳橋の中でも、由緒ある料亭「いな垣」の女将。米山さんも跡取りだったが、時代の波に逆らえず、料亭や芸者は柳橋から消えていった。
1997年に市丸さんが亡くなった際、隣地且つ角地ということで、祖母がこの土地を購入。それから長い間、空き家として放置されていた。
骨董屋・ギャラリーとして生まれ変わる
幼い頃から仏教美術などに興味があった米山さん。大学卒業後は「いな垣」を手伝い、その後は専業主婦に。古いものが好きで骨董屋に通うコレクターだった。30代後半で骨董屋をやりたいと思い立ち、場所を探しはじめる。知人のギャラリーオーナーに「隣にあんな良い建物があるのに」と言われたことをきっかけに、ここで骨董屋をオープンすることを決意、祖母を説得した。
数年空き家になっていたため、襖や障子は破れ、お化け屋敷状態に。まずは1階の奥の部分を改装し、2001年秋にオープン。その後も少しずつ直し、2階部分が使用できるようになると、ある陶芸家の個展をしたいという申し出をきっかけに、展覧会がメインになる。骨董店として米山さんのコレクションが出るのは、年に2、3回。
ルーサイトギャラリーの「ルーサイト」とは、アクリルの前身の合成樹脂のこと。透明で何色にも染められることから、毎回出し物が変わるギャラリーにふさわしいのでは、と名付けられた。また、「ルー」にはラテン語で明るいという意味があることも、米山さんの明子という名前にちなみ、決め手となった。
笑いの生まれる場所へ
ルーサイトギャラリーでは、展示の他に、演劇を上演したり、テレビ・映画のロケ地にもなっている。ふとドラマを見ていると見覚えのある眺めに驚かされることも。またカフェやバーを不定期でオープンしているので、隅田川を眺めながらケーキやお酒を楽しむことができる。なんとも贅沢な時間を味わえるのだ。
米山さんはここから笑いを発信していきたいと語る。「いな垣」をはじめとする花街が消えてしまい、受け継ぐことができなかったという悔しい思いもあり、宴席には笑いが多かったことから、せめてここだけは柳橋の心意気を残し、人々の笑い声を取り戻したいという。
かつて、世の人をその歌声で虜にした市丸姐さんのお屋敷であるこの建物は、在りし日の花街の明るい笑いが響くギャラリーとして、今も隅田川のほとりに立ち、世の移ろいを見守っている。
取材・文・撮影=千絵ノムラ