頼朝の武威を示した空前の規模の巻狩り

巻狩りは 5月8日、現在の御殿場市から裾野市にかけての地域で始まり、頼朝は5月15日に富士野の御旅館に入った。それから6月7日まで、現在の富士宮市北部の上井出、原、内野、人穴、猪之頭周辺で巻狩りが行なわれている。この巻狩りは単に狩猟を楽しむだけではなく、征夷大将軍・頼朝の権威を、京の公家たちをはじめとする敵対勢力に見せつける軍事演習であった。

巻狩りが行われた朝霧高原にある景勝地、田貫湖から望む富士山。
巻狩りが行われた朝霧高原にある景勝地、田貫湖から望む富士山。

また御家人たちにとっては、頼朝の御前で馬上から獲物を仕留め、自らの武威を誇示することが重要な目的となっていた。そこでは頼朝の嫡男である頼家が、大きな鹿を見事に射止めている。この当時、巻狩りで得た獲物は、神からの贈り物と考えられていた。

これを目の当たりにした御家人一同は、頼家こそが将軍家の正統な後継者だと認める機運に包まれたのだ。こうして軍事演習の色合いが強かった巻狩りが、頼家を祝うお祭りムードへと変わったのである。

富士山が作り出した美しい里が舞台

富士の巻狩りは広大なエリアで行われているので、今回は現在の富士宮市から富士市にかけての足跡に絞ることとした。

最初に目指したのは、朝霧高原の猪之頭集落にある「陣場の滝」だ。滝の名前は、この巻狩りの時に頼朝が近くに陣を張ったことが由来となっている。芝川の支流・五斗目木川にかかる素朴な滝で、上流からの流れと溶岩層の隙間から湧き出た水が滝を形成している。

駐車場から陣場の滝に向かう遊歩道と五斗目木川。
駐車場から陣場の滝に向かう遊歩道と五斗目木川。

陣場の滝は静かな山里の奥にあり、穴場的な雰囲気に包まれていた。周囲には土産物屋などもないので、かえって古(いにしえ)の面影を感じさせる。駐車場から滝までの遊歩道は200mほどで、急な上り下りもなく歩きやすい。また近くには、神秘的な風景で知られる朝霧高原の景勝地・田貫湖もある。

上流からの流れに加え、富士山の溶岩の隙間からも水が溢れ出る陣場の滝。
上流からの流れに加え、富士山の溶岩の隙間からも水が溢れ出る陣場の滝。

次いで向かったのは、観光地として人気が高い「白糸の滝」である。陣場の滝から直線距離でも7kmほどあるので、歩くにはそれなりの覚悟がいる。ここはバスを利用するのがおすすめ。東端の駐車場の近くにあるのは、曽我兄弟(兄・十郎祐成、弟・五郎時致)が身を隠し、仇討ちのための密議を行ったと伝わる「曽我の隠れ岩」だ。

兄弟は親の仇である工藤祐経が巻狩りに参加することを知り、好機が到来するのを伺っていた。建久4年(1193)5月28日は、鹿を仕留めた頼家を祝う宴が催される。御家人たちが酔って寝静まるまで、兄弟が身を潜めたのが隠れ岩の陰である。

兄弟が身を潜め好機を待ち続けたという曽我の隠れ岩。
兄弟が身を潜め好機を待ち続けたという曽我の隠れ岩。

さらに隠れ岩から小道を東に100mほど行くと、兄弟の標的となった頼朝の御家人、「工藤祐経の墓」が建てられている。

巻狩り当時、工藤の陣所は、いま祐経の墓が建つ場所に置かれていた。まさに兄弟は指呼の間から様子を伺っていたのだ。

隠れ岩から見える位置にある工藤祐経の墓。工藤はここに陣を構えていた。
隠れ岩から見える位置にある工藤祐経の墓。工藤はここに陣を構えていた。

何代にも渡り遺恨が積み重なっていた

襲われた工藤祐経は、伊豆国伊東荘の領主・工藤祐継の嫡男として生まれた。祐経がまだ幼い頃に祐継が亡くなったため、叔父である伊東祐親が後見人となった。だが祐親は以前、所領問題で祐継ともめていて、ずっと不満を抱えていた。祐経は元服すると平重盛に仕え、伊豆を留守にして上洛してしまう。その隙に祐親は、かねてからの不満を晴らすために、祐経の所領であった伊東荘を占拠してしまったのだ。

京で叔父による所領横領に気づいた祐経は平家に訴えたが、平清盛から厚い信頼を得ていた祐親は、祐経の訴訟を退けるように根回しをしていた。このことを恨んだ祐経は安元2年(1176)10月、伊豆の狩場から戻る途中であった伊東祐親を家人に襲わせた。だが放たれた矢は、一緒にいた嫡男の河津祐泰を射殺してしまう。この河津には、一萬丸と箱王丸というふたりの男児がいた。その子らは、母が再嫁した曽我祐信のもとで養育されている。このふたりこそが、仇討ちの主役である曽我兄弟なのだ。

宴の夜に積年の恨みを晴らした曽我兄弟

隠れ岩の西側には、白糸の滝とともに日本の滝百選に選出されている「音止の滝」がある。名前の由来は、曽我兄弟が密談の最中、滝の轟音を天に嘆いたところ、一瞬音が止んだという伝説による。音止の滝の先には、富士山の伏流水が溶岩層の隙間から溢れ出ているという、珍しい光景が見られる白糸の滝がある。滝の上には頼朝が巻狩りの際、鏡のような水面に映った鬢(びん)のほつれを整えた「お鬢水」という、湧水が溶岩の窪地に溜まった池も残されている。

密議の声が聞こえるよう、一瞬滝音が止んだという音止の滝。
密議の声が聞こえるよう、一瞬滝音が止んだという音止の滝。
富士山の伏流水が富士の溶岩の隙間から流れ落ちる白糸の滝。世界文化遺産である。
富士山の伏流水が富士の溶岩の隙間から流れ落ちる白糸の滝。世界文化遺産である。
白糸の滝の上にある湧水池お鬢水。頼朝が鬢のほつれを直したと伝わる。
白糸の滝の上にある湧水池お鬢水。頼朝が鬢のほつれを直したと伝わる。

人々が寝入った頃を見計らい、曽我兄弟は工藤の陣屋に押し入る。そして祐経を起こしてから名乗りを挙げ、見事に討ち果たした。だが騒ぎに集まった武士たちに、曽我兄弟は取り囲まれてしまう。ふたりは鬼神の如く暴れ、10人斬りを見せた。そしてそのまま源頼朝の宿所に討ち入った。しかし仁田忠常に阻まれ、兄の十郎が討たれる。

仁田忠常の陣所が置かれていた近くに建立された曽我八幡宮。
仁田忠常の陣所が置かれていた近くに建立された曽我八幡宮。

十郎が討たれたとされる場所は、工藤の陣所と頼朝の宿所の中間あたりで、仁田忠常の陣所が近かった。現在はそこに頼朝の命により建立された「曽我八幡宮」があり、さらに東側の小高い丘上には「曽我兄弟の霊地」と呼ばれる墓が建てられている。

兄十郎が討ち取られた場所に近い丘上に築かれた兄弟の霊地。
兄十郎が討ち取られた場所に近い丘上に築かれた兄弟の霊地。

巻狩りの際に頼朝が宿所としていたのは、現在の狩宿にある井出家の周辺と考えられている。井出家入口では「狩宿の下馬ザクラ」と呼ばれる、樹齢800年を越える日本最古級のヤマザクラが、堂々たる枝ぶりを見せてくれる。頼朝はこの桜に馬を繋いだため「駒止の桜」とも呼ばれているのだ。

空の広さを感じつつ狩宿の頼朝宿所へと向かう。緩い下りで楽に歩ける。
空の広さを感じつつ狩宿の頼朝宿所へと向かう。緩い下りで楽に歩ける。
中世以来の名家・井出家の高麗門と長屋。この邸宅周辺に頼朝の宿所があったという。
中世以来の名家・井出家の高麗門と長屋。この邸宅周辺に頼朝の宿所があったという。
頼朝が馬から下りたとも、馬を繋いだとも言われる下馬ザクラと富士山。
頼朝が馬から下りたとも、馬を繋いだとも言われる下馬ザクラと富士山。

隠れ岩からふたつの滝を巡り、頼朝の宿所まで、基本的には緩い下り坂が多く、富士山と素朴な山里の風景を楽しみながらのウォーキングが味わえる。

富士市にも残る曽我兄弟の足跡を訪ねて

弟の五郎はその場で捕らえられ、鎌倉に護送されることとなった。その途中、現在の富士市鷹ヶ岡付近で工藤祐経の子・犬房丸によって首を刎(は)ねられた、と伝えられている。JR身延線入山瀬駅周辺にも、五郎が首を刎ねられた場所をはじめ、曽我兄弟ゆかりの地が点在している。ということで、こちらにも足を延ばしてみた。

住宅に挟まれた小さな空き地に建つ五郎の首洗い井戸の碑。
住宅に挟まれた小さな空き地に建つ五郎の首洗い井戸の碑。

まず五郎が首を刎ねられたとされる場所は、駅から徒歩15分ほどの凡夫川沿いにあった。「五郎の首洗い井戸」と呼ばれ、かつてここにあった井戸の湧水で、討ち取った五郎の首を洗い清めたのだ。今では井戸はなく、小さな空き地に碑があるだけ。かつては井戸周辺に小さな池もあり、毎年5月28日になると水が赤く染まったという。

井戸から3分ほどの場所にある曽我八幡宮。
井戸から3分ほどの場所にある曽我八幡宮。

そこから3分ほどの場所には、敵討ちから4年後の建久8年(1197)、頼朝の命により家臣の岡部権守泰綱が建立した「曽我八幡宮」がある。さらに凡夫川に沿って駅方面に戻ると、境内に曽我兄弟の墓がある「鷹岳山福泉寺」がある。墓の隣には兄弟の像があり、さらに本堂には兄弟の木像と位牌も安置されている。そのためいつしか「曽我寺」という名が一般的となった。

曽我寺という名が定着。江戸時代には東海道を行き来する人の参詣が絶えなかった。
曽我寺という名が定着。江戸時代には東海道を行き来する人の参詣が絶えなかった。
兄弟の像と墓は隣同士に築かれている。
兄弟の像と墓は隣同士に築かれている。

曽我兄弟の行為は後には武士の鑑とされ、江戸時代には能や浄瑠璃、歌舞伎、さらには浮世絵などの題材に取り上げられ、民衆の人気を得た。だが単純な仇討ちではなく、裏では頼朝の暗殺が仕組まれていた、という噂も囁かれている。その黒幕は北条時政だというのだ。また相模の御家人である岡崎義実らがクーデターを企てた、という説もある。彼らは頼朝を亡き者にし、弟の源範頼を新たな鎌倉殿に据えて、実権は自分たちが握ろうとしたというが、本当のことは今も闇の中なのだ。

兄十郎の想い人、虎御前の足跡

入山瀬駅からの徒歩圏内には、兄十郎の想い人であった虎御前の足跡もある。兄弟の安否を心配して後を追った御前が、兄弟の絶命を知り泣き崩れた「虎御前の腰掛石」や、御前を祀った「玉渡神社」など、派手ではないが、物語により彩りを添えてくれるので、ぜひ足を運んでおきたいスポットだ。

兄弟を想う虎御前の献身的な姿にうたれた村人が建てた玉渡神社。
兄弟を想う虎御前の献身的な姿にうたれた村人が建てた玉渡神社。
虎御前が兄弟の死を知り泣き崩れた際、腰を下ろした石も祀られている。
虎御前が兄弟の死を知り泣き崩れた際、腰を下ろした石も祀られている。

次回は鎌倉殿を支えた13人中、もっとも謎に包まれた武将、梶原景時に迫ってみたい。

取材・文・撮影=野田伊豆守