きらびやかに飾った愛車で街道をゆく男たち
昭和50年代、運送業界は忙しく、走れば走るだけ稼げた時代でした。父はトラックに寝泊まりしながら銚子港、築地市場、そして北は北海道から南は九州まで魚箱を運び、何晩も家に帰らず走ったのでした。無精ひげ伸び放題で帰宅すると、小さな私が泣いて後ずさりし、「あれは寂しかったな」と笑っていたのを覚えています。
稼げるし、映画の影響もあるし、自分の愛車をきらびやかな電飾で演出しては、街道をゆく男たち——。龍や観音様、花魁(おいらん)なんかのペンキ絵をボディに描いたトラック、地面スレスレに巨大バンパーを取り付けたトラック、角のようにマフラーを突き立て、キュロロロロと低い排気音を奏でるトラック、父の友達の「牛屋」さん(肉牛を運ぶ)は、牛が顔を並べる隣に大きな般若を描いていましたね。内装にもこだわり、シャンデリアを吊っている人もいました。だいたい、運転席と助手席の間、寝台のあたりにはヌードポスターや演歌歌手のカレンダー。昔は八代亜紀(これも映画の影響ですね)、そのあとは工藤静香が人気だと、運転手たちは言っていました。
息子の名前が行燈にギラギラと……
ところが父が仕上げたトラックは、地味でした。デコトラといっていいか微妙なライン。博打好きでしたから、カネがなかったんでしょう。いすずの四トン車の、まずは助手席をつぶしベニヤを渡し、そこに赤紫のチンチラ生地を張りました。当時、私の住むド田舎に託児所なんてありません。家族三人で旅の日々を送らねばならない一時期がありました。母と小さい息子が寝たり、一日過ごすのにラクな、フラットシートをつくったわけです。
これにまつわる小さな一事件もありました。真夜中、疲れ切った父と母がドライブインでラーメンをすすっていると、突然店の引き戸があきました。見ると、裸足の子供。このシートで寝ていたはずの私でした。以後、夜中にやっと一息つけるときも、眠る子を抱いたまま二人は食事をとり、また深夜の国道を走るのでした。
さて、続いて外装です。キャビン、ボディともに電飾は少ししかついていませんでした。ただ、上を見上げると……キャビンの上の行燈(あんどん)に……私の下の名前●●を入れた、「●●丸」、という文字がギラギラに光っているのです。小学校にあがったあと、これがどれだけ恥ずかしかったか!
父のトラックを見かけた同級生たちから、「●●丸かー。お前は船かよ」とか「みんなに名前覚えてもらえていいね(笑)」などとよくからかわれましたね。一刻も早く、トラックを買い替えてほしかったのは言うまでもありません。苦い記憶です。
長距離運転の孤独と無聊を慰めるトラック無線
お許しください、なんだかいろいろ記憶がよみがえってしまいました。思い出をぽろぽろ続けます。そうそうもう一点、デコトラ野郎必携アイテムに、「無線」がありました。いわゆるトラック無線と呼ばれた、運転手たちから絶大に支持されたCB無線のことです。長距離運転の孤独と無聊(ぶりょう)を慰め、眠気を切るために運転手たちは無線機を積みました。源氏名というか通り名というか、本名でない無線名を皆使い、遠くの人と雑談しながら走るのです。父の若い頃の名は「フォワードボーイ」。ひとしきり会話が終わるとピュッと口笛を吹いて無線機を置く仕草が好きでした。
全国各地に無線の会があって、活発な交流も行われていました。会では「代紋」をこしらえ、会長とか総長みたいな役職も設けてあります。父もとある会の「五代目会長」に就任しています。なにか、彷彿とさせる団体がありますね。懇親旅行もあって、山梨へぶどう狩りに父と二人で行き、各地の会の人達とぶどう棚の下で宴会をしました。子供の目で見てもみなさん、「本職」そのものでした。でも、違います。みんな飲み会が終わり朝が来れば、汗を流して真夜中まで家族のために走る男たちでした。
無線は廃れ、デコトラも減った、その後
このCB無線は急速に廃れ、現在使用すれば違法です。信号機が点かなくなってしまったり、話し声がテレビの音声に混じったりする強力な電波を発し、私もよくご近所さんから、「お父さんのトラック帰ってきたね。うちのテレビに声入ってきたから」と言われたものです。大変迷惑・危険な代物だったのです。
デコトラ自体も減っていきました。一番の理由は法的な規制ですが、それだけではないでしょう。昭和50年代はまだ、「持ち込み」とか「傭車(ようしゃ)」といって、個人所有の車で仕事をする請負契約の運転手がたくさんいました。自家用の白ナンバー車です。父もまたそうでした。走れば走るだけカネになります。母と私とじいさんばあさんを食わせるため、無線でバカ話をして眠気を覚まし、ドライブインで軽く寝て、また若さを頼みに走り続けたのでした。デコトラは、自分の稼ぎで飾る、「動く自分の城」だったのだと思います。いま、運送会社所有のトラックでやるのは、なかなか難しいですよね。
最後に忘れられない場面をひとつ。私が高校生になり、父の運送屋で使っている倉庫へたまたま行ったときのこと——。何気なく建物脇をみて驚きました。とっくの昔にスクラップになったはずの、父が乗っていたいすずの四トン車があるではないですか。倉庫代わりに使っていたようです。黒ずみ、すっかり傷み、飾りもほとんど取れています。
それでも、「●●丸」の行燈は、付いていました。このときはもう、恥ずかしさなんて微塵も感じませんでした。
昭和のころ、私が実際に目にしたあらゆるデコトラを思い出してこの稿を書きました。記憶のなかではいまでも、デコトラたちは輝き続けています。でも一番輝いているのは、初めての子の誕生をいつまでも喜び続ける、この黒ずんだトラックなのです。
文=フリート横田