あの、おすすめは……
ひとまず飲み物を注文しようと声をかけると、やってきたのはいかにも老舗居酒屋にいそうな50代くらいのベテラン風女性店員。その接客はきちんと注文が通っているのかもわからないぶっきらぼうなものだったが、下町の居酒屋はこのくらいでいい。「いらっしゃいませ!!」とアルバイトが大声で唱和する大手チェーンの接客の方が異常なのだ。そんなことを思いながらしみじみと瓶ビールを飲んでいると、カウンターに戻った女性店員は常連客に対し「○○ちゃん、いつものでいい?」と私たちを相手にしたときとは打って変わった愛想のよさを見せており、その温度差に戸惑った。
ビールを飲み干し、食べ物を注文しようと再びさっきの店員を呼んだ。そのとき、花池君が気を利かせて「この店のおすすめは何ですか?」と尋ねた。店員はフッと鼻で笑い、「お客さん、この店は初めてですよね」と言った。花池君が「はい、初めてです」と返したが、店員は何も喋らない。こちらの質問を忘れてしまったのだろうか。不可解な数秒が流れ、再び花池君が「あの、おすすめは……」と切り出すと、店員は呆れた表情で「おすすめはありません」と返したのである。
なんだそれは。そんな返答があるのか。私は反射的にイラっとしたが、大人な2人が「ああ、じゃあこの煮つけで」と適当に頼んでその場を収めた。店を出たあと、なんだあの店員、おすすめがないってどういうことだよと私が愚痴を言うと、「ああいう老舗でおすすめを聞くのは失礼にあたるよね。すべてのメニューにプライド持ってるだろうから」と大北さんに諭された。年長者の大北さんが言うならそうなのだろう。この世には私の知らないルールがたくさんあるのだとそのときは思った。
現在、私は当時の大北さんと同じくらいの年齢になった。しかし今でもやはりあのときの店員の答えに納得がいっていない。「いや、何でもいいから何か答えればいいじゃん」と思ってしまう。それは私の器が小さいせいなのか。老舗の居酒屋ではなくその辺のチェーン店ばかり行っているから経験が積み重なっていないのかもしれない。
飲み屋における暗黙の了解に精通した、粋な大人になるまでの道は、まだまだ険しそうである。
文=吉田靖直 撮影=鈴木愛子
『散歩の達人』2022年2月号より