値段のないそば店にびっくり
立ち食いそば好きの知り合いにすすめられ、初めて『浜田屋』に行ったのは2018年頃のこと。およそ飲食店などなさそうな雰囲気のエリアの通り沿い、そのさり気なさすぎる佇まいは今も変わっていない。
店に入ると天ぷらの並んだケースがあり、そこからごぼうとアジを選んだ。そばが出てきて、お金を払おうと店内を見回すと、値段表がどこにもない。とりあえず1000円札を用意して値段を聞くと、なんと330円だという。ん? 間違っていない? 天ぷら2つ入れてますよ。安すぎる値段に確認してみると、そばが220円、アジが50円、ごぼうが60円とのこと(当時)。……うん、間違っていなかった。
そばは、柔らかめの麺が、優しい味わいのツユによく合っていた。江戸そばのキリッとしたツユではなく、じんわりとしたおいしさ。家庭の味のすごくいいやつ、といった感じ。天ぷらもサックリフワッと揚げられていて、ツユなじみもいい。びっくりするほどおいしい、というわけではないが、こじんまりした店の雰囲気とも相まって、なんだかホッとする味だった。
それにしても、どうしてここで、そしてこうもひっそりとそば店をやっているのか。どうしても気になった私は店主の山寺和子さんに取材を申し込み、その成り立ちを聞いてみた。
卸業を営みながら始めた店
『浜田屋』を始めたのは1989年。それまでは夫と一緒に、中華食材の卸業を営んでいたのだそう。今の店はもともと自宅兼、倉庫だった。しかし置き場所が狭くなってきたため近くに別の倉庫を借り、こちらは配達の受付などをする窓口として使っていた。
とはいえ、1日中、受付をしているわけじゃない。時間はあるから外でパート仕事でもしようと思うが、配達が来るからここを動くわけにはいかない。ここにいながら、1人でなにかできるものと考えたとき、自分たちが扱っている食材を活かし、手軽に始められる商売として立ち食いそば店を思いついたのだという。
以前に親戚のラーメン店を手伝っていたこともある。夫と一緒に配達をするとき、立ち食いそばはよく食べていた。料理好きだから、調理も苦ではない。たまたまが重なってスタートした『浜田屋』は、なかなか順調だったという。近辺は下町らしく小さな工場や事務所が多い。そこで働く人たちがサッと食べるには、ちょうどよかったのだろう。家庭料理の延長のような気取らない味わいも、毎日食べるにはありがたい。
そのうち客足は落ち着きだし、以来、今のような感じで33年続いているのだという。それでも、その間には夫が逝去されて卸業を廃業したり、足を悪くして入院し、休業していた時期もあった。それでも『浜田屋』は、淡々と続いてきた。
「お客さんは近くの常連さんがほとんどで、ほぼ毎日、来てくれますよ。1日に20人から30人ぐらいね。だから、記事になってお客さんが増えたら、困るのよ」
『浜田屋』でそばを食べていると、飲食店というより、親戚の家でごはんを食べているような気持ちになる。常連さんたちはみな、そばを食べながら、和子さんと最近の天気や近所のことなどをあれこれ、話している。そのBGMは、よそものの私にも心地良く、なんだかリラックスした気分になる。
常連さんには憩いの場所
そんな『浜田屋』らしい象徴が、冒頭の「値段表がない」ことだ。かつては値段表が壁に貼られていたのだが、汚れてしまったからと剥がしてしまったらしい。初めてくる人は値段が分からずとまどうらしいが、毎日、来る常連さんはなんとなく分かっているから問題ない。なんとなく、というのは、実は常連さんでも値段を正確に把握していない人がいるからだ。それでも、だいたい300円ちょいなのだから、気にすることはないのだろう。
ちなみに2022年4月11日から値上げされ、かけそば220円、冷やしが240円、1.5人前で50円、2人前で100円増し。天ぷら類は一律で80円となる。「自宅で賃料がかからない」「赤字にならなければいい」と和子さんは値段の理由を言うが、それでも申し訳なくなる安さなんですけれど……。
以前、『浜田屋』には、店頭にタバコの自動販売機が置かれていた。近くにコンビニエンスストアができて売上が落ちたこともあって機械はさげたのだが、今も店の奥で、ほんの数種類だけ、タバコを売っている。前からタバコを買い続けてくれる常連さんのために、置いてあるのだという。これが『浜田屋』なのだ。
さて、ここまで書いておいてあまりに不親切なのだが、「よし、さっそく食べに行ってみよう」とは、考えないでほしい。和子さんの言うようにお客さんは1日に20~30人で、食材もその程度しか用意していない。ヘンに混んでしまっては、いろいろと不都合なのだ。さほど影響力のある連載ではないため、不要な心配かもしれないが、念のため。
この世の中には、こんな立ち食いそば店がある。それをなんとなく覚えていてもらって、たまたま根岸に行ったときに、ちょっと寄ってみる。勝手ながら、そんな感じでぜひお願いしたい。そばの店はいろいろあるけれど、こういうのもあるんだなぁ、と思っていただければ、うれしいのです。
取材・撮影・文=本橋隆司