知る人ぞ知るソウルの殿堂
長さ約1.3㎞。日本有数の長さと言われる戸越銀座商店街の両側にはほとんど隙間なく商店が並ぶ。だがそこから脇道に入っていくと、緩やかな坂道の両脇には閑静な住宅街が広がっている。
戸越銀座駅から1~2分。その住宅地の中の坂を上がっていくと、100m進んだ場所に、そこだけ別の国のようなきらきらと輝く一角が現れる。
この場所こそ、知る人ぞ知るソウルの殿堂、『SOULBAR OBRIEN’S』。素通しのガラス越しにまず見えるのは、壁のラックに並ぶ大量のレコード。そして天井に設置された巨大なミラーボール。
入り口から奥まで、ミラーボールの光に照らされるように輝くカウンターが伸び、目の前の壁には大量のお酒のボトルがきらきらと光を放っている。店に立ち入った瞬間に、頭は別世界モードに切り替わる。
とにかく新しい音楽が大好きなんだ
迎えてくれたのは店主のKenchanmanさん。質問をさせていただこうと「マスター」と呼びかけるとまずそこで一言。「店でおれのことマスターとか呼ぶ人はいないよ。仲間はみんなKenchanmanと呼んでる」「そうですか、ではKenchanmanさん」「あのね、“さん”も余計」。
まずはこんな言葉のやりとりで、一気に距離が縮まり場は温まる。ということでご本人の希望により、本文中はKenchanmanと呼ばせていただく。
「お店を始めたのはオレが20歳のころだから、もう40年近いね」。この場所ではもともと父親が皇室御用達の神官装束職人をしていて、たくさんの職人さんも働いていたんだそう。その職人さんが別のところに移ったので、そのスペースを使ってお店を始めたのが40年前。
「もともとは隣のスペースも入れて倍くらいの広さでやっていた。今のお店になったのは3年くらい前。ビル全体を立て替えて今の感じになったんだ」とKenchanman。お店を開く前は、近所の友人と連夜六本木に繰り出し、いろんな店をはしごして、とにかくあらゆる音楽を聴きまくっていたとのこと。
「ジャンルは問わず新しい音楽が好きでね。当時は音楽の情報も限られていたから、とにかく新しい音楽を知りたくてロスにいる仲間から音楽番組のビデオを送ってもらったり。ブラックエンターテインメントの映像なども船便で一カ月遅れぐらいで手に入れていた。そんなことを20年くらいやってたかな」。
お店を始める時は、あまり深くは考えなかったとのこと。「1回きりの人生なんだから好きなことをやんなきゃ。それだけ」。
このレコード、何枚くらいあるんですか? 「何枚あるかなんて数えたことないよ。だいたいレコードは数えるもんじゃなくて、聴くものだから。ただここに良いレコードを並べるために、ここの店3つ分くらいのレコードを買っては捨ててきたよ」。
日替わりで人気DJが店を盛り上げる
お店にはほぼ毎日のように“街なかで一番人気のある”DJが日替わりで出演。そのDJ目当てのお客で満員になることも多いとのこと。「みんなうちに出たいって言ってくれるんだよね」とKenchanman。深夜、日付が変わったころからは毎日Kenchanman自らがDJを行い、好きな音楽で、なじみのお客さんたちと、朝までの時間を過ごす。
「うちの店では、とにかく音楽ガンガンかけてみんな本当に自由に過ごしているよ。踊る人もいるし、酒飲んでカウンターで寝るのも自由。お金払って酒飲んで、大好きな音楽を大きな音で聴きながら寝るなんて最高のぜいたくじゃない。むしろ寝てるのを起こす奴の方を追い出すよ」と、この店の流儀を教えてくれる。
食べ物のメニューも充実していて、DJが入っている時の方がKenchanmanの手が空くので、メニューの設定もよくなるとのこと。「腹が減った」というお客さんにはもちろん、食べたそうな顔しているお客さんにはKenchanmanが勝手に肉を焼き、出してあげるのはいつものこと。
もちろんそんな時にはお金を取る気はない。ただお客さん側も慣れたもので、カウンターの上に少し多めのお金を置いて帰るという。「なかには5000円くらいなのに4000円おいて帰るやつもいるけどね(笑)。ただ食べ物に関しては高い値段はとらないよ。こっちから出してるものはタダだし。おいしい食べ物出せばその分、沢山お酒を飲んでくれるからそれでいい」。
お客さんの層は、その日出演するDJによっても変化するとのこと。男ばかりの日あれば、女性ばかりの日もある。年齢層は若い方から70歳代までの超幅広。近隣に住む方よりも、むしろ街の外からこのお店を目的に戸越銀座に訪れる人のほうが多いとのこと。
「店は死ぬまでやっていくつもり。大好きだもの」とKenchanman。開店は20時。閉店はだいたい朝。「遊びに行くから2時過ぎくらいに閉店なんて時もたまにあるかな。おれだって自由だもの」。
今夜もソウルの殿堂に、老若男女の音楽好きが集結する。
構成=アート・サプライ 取材・文・撮影=夏井誠