山アパートでの初夜

嫌な店員ではあったが、結局そこで紹介された家賃3万5千円、風呂なし・トイレ共同、高田馬場駅まで徒歩25分の「山アパート」を契約。床がフローリングだったのと、適当に付けられたような名前が気に入った。

一旦実家に戻り親戚などに挨拶した後、改めて4月頭に上京。入学式まではまだ1週間ほどあったが、部屋も借りたことだし、早く東京に行きたかった。

近所の友達で同じく東京の大学に進学する純平も一緒に上京し、ふたりで山アパートに泊まった。事前に送っておいた布団とギター、CD、本くらいしか物がなく、まだ電気も通っていない真っ暗の六畳一間にいいちこや缶ビールを持ち込んで東京生活のスタートを祝う。東京にいるのがうれしすぎて、未来が楽しみすぎて、いても立ってもいられない。やがて酔いが進み羞恥心が消えれば、この胸の中に滾っている衝動を言葉にできるだろうと思ったが、移動で疲れたのか、日付も変わらないうちに純平は眠ってしまった。まあいい。俺たちは東京にいて、有り余る時間を持っている。これから何度も熱い議論を交わす夜がくるだろう。

翌朝、家の近くを歩き回って見つけたモスバーガーに入った。日差しが暖かく、春の陽気だった。

「俺ら今東京の人みたいになっとるな」
「まあ、実際もう東京の人なんやけどな」と言葉を交わした。

けれどこの街で私たちを知っている人はまだ誰もいない。まだ一つの答えも出ていない。私たちは若く、何者にでもなれる可能性があって、未来に何の不安もなかった。

文=吉田靖直 撮影=鈴木愛子
『散歩の達人』2021年9月号より