小野先生
小野正弘 先生
国語学者。明治大学文学部教授。「三省堂現代新国語辞典 第六版」の編集主幹。専門は、日本語の歴史(語彙・文字・意味)。

「恋」は和語、「愛」は漢語

筆者 : 日本には昔から、恋愛の歌はたくさんありますよね。

小野先生 : 平兼盛の「しのぶれど 色に出でにけり わが恋はものや思ふと 人の問ふまで」などは、百人一首にも取られた有名な一首。「恋」の気持ちは、隠そうとしても隠しきれないものなのだ、というところがよく表現されていて、私の好きな恋の歌です。
でも、古い和歌では「恋」はとてもよく詠まれましたが、「愛」は登場しなかったんですよ。

筆者 : そうなんですか!? 万葉集などの時代には「愛」ということばが、まだなかったからでしょうか?

小野先生 : いえ、そのころには「愛」もありました。しかし、「恋」はもともと日本にあった「和語」であるのに対し、「愛」は中国から来た外来語「漢語」なんです。和歌は、「菊(「きく」は音読みのことば)」や、仏教の言葉などの一部例外を除いて、日本のことばで詠むのが、長い間のルールでした。
「愛」が和歌に詠まれるようになったのは、明治に正岡子規が近代短歌の改革を行って以降のことです。

「愛」はイメージのよくないことばだった!?

筆者 : それぞれ、意味は今と同じだったのでしょうか?

小野先生 : 「恋」は概ね現代と同様に、恋愛の対象へ向けられた好意を言いました。ただ、土地や植物に対して使われた例もあります。今でも「ふるさとが恋しい」などと言いますね。
前述の兼盛の歌のように、隠そうとしても隠しきれない強く切ない思いを「恋」と表現しており、現代からでもよく理解できるものですね。
「愛」は今とは違って、あまりよいイメージのことばではありませんでした。仏教的な思想とも関わり、ひとつのことに心がとらわれる「執着」のような意味で用いられていました。
また、「性愛」のニュアンスも含んでいたようです。そのため室町時代に日本へ来たキリスト教宣教師たちは、神の「愛」を説こうとしましたが、受け入れられなかったと言います。代わりに「御大切」という言葉で説明しました。

筆者 : 意外です! 今ではどちらかといえば「愛」のほうが良いイメージかもしれません。恋愛の意味もありますが、博愛とか家族愛、動物への愛も含む、広い概念のように思います。

小野先生 : 「恋は求めるもの、愛は与えるもの」などと言われることもありますよね。キリスト教的な「愛」が説かれるようになったのは明治時代で、このときイメージの変更があったと考えられます。

筆者 : 「恋」と「愛」を使い分けるのは、複雑なことばの歴史があるからなのですねぇ。

小野先生 : 英語では「LOVE」、韓国語では「사랑(サラン)」というように、外国語では「恋」と「愛」をひとつのことばで表現することが多いようです。
ところで、小越さん(筆者)は、誰かに「愛している」と言ったことはありますか?

筆者 : と、突然の逆質問! 本気で言ったことは……ないと思います。

小野先生 : 私も同じです(笑)。「愛している」というと、ちょっと芝居がかっているというか、真実味がないように感じませんか? 日本語では「恋」と同じ和語の「好き」が自然な表現のように思います。

筆者 : 「愛」は外来の概念だから、いまだになじめないところがあるのですね。

取材・文=小越建典(ソルバ!)