ダム建設用貨物線として小河内線が誕生し、休止線となった現在も遺構が残る

線路は山間部を縫いながら敷設され、戦後すぐの1952年に開通。1957年に資材輸送が終了すると、路線の所有権は東京都から西武鉄道へと譲渡されます。西武鉄道は小河内ダムおよび奥多摩湖への観光列車輸送を計画しましたが撤回となり、再度奥多摩工業へ譲渡されます。実際は廃線ではなく、運行休止のまま現在に至っている休止線とのことです。

日原川橋梁脇の集落に咲く寒椿と鉄筋コンクリート(RC)桁。小河内線が現役だったら絵になった場所だ。
日原川橋梁脇の集落に咲く寒椿と鉄筋コンクリート(RC)桁。小河内線が現役だったら絵になった場所だ。

その遺構は橋梁、トンネルだけでなく線路も剥がされないまま、山中に没します。ところどころで青梅街道沿いに遺構が残り、線路の残る路盤は草木が生え、その光景は昭和から平成令和となって、どんどんと自然へ没している状況となっています。

小河内線は都心から通勤電車で容易に訪れられる「都内」にあり、いつかは本格的に行こうと思いつつも、青梅街道沿いから眺める程度でした。遺構は全線立入禁止だからです。ほとんどの場所は山肌に崩落や転落の危険があり、廃線跡(休止線とのことですが、便宜上廃線跡にします)を歩いての全区間踏破はできません。小河内線は現役時の5年間に140件以上もの落石や土砂崩れが発生し、列車転落事故も発生しました。線路周囲の山肌は脆いのだと推測できます。

後ほど紹介する「奥多摩むかし道」からの光景。第二弁天橋橋梁。
後ほど紹介する「奥多摩むかし道」からの光景。第二弁天橋橋梁。

道路や散策道から安全に遺構を観察し愛でる範囲内にとどめ、2021年6月9日と11月17日に訪れた模様をお伝えします。

 

奥多摩駅からいきなりのRCアーチ橋と細い道に構えるRC桁

奥多摩駅に到着しました。駅構内の傍らは、奥多摩工業の石灰石工場である氷川工場の堂々たる姿があって、思わず目を奪われてしまいます。1999年までは、青梅線に石灰石貨物列車が走り、奥多摩駅構内は貨車が賑わい、EF64-1000番台電気機関車の汽笛が山にこだましていました。その光景も一昔前。いまは線路跡の敷地があるだけです。

小河内線はこの氷川工場から線路が伸びているはずです。その姿は「氷川国際ます釣場」へ至る道を進み、日原川を渡る橋の上から確認できます。山肌にへばりつくようにして氷川工場の威容があり、そのツギハギだらけ(褒め言葉です)の建屋の左脇からニョキッと白っぽい桁が望めました。小河内線の橋梁です。

氷川工場の左側にある遺構。第一氷川橋梁である。夏場は木々で隠れてしまう。
氷川工場の左側にある遺構。第一氷川橋梁である。夏場は木々で隠れてしまう。

橋脚のスパンは短く、C11形蒸気機関車1両分の長さ(約12m)といったところでしょうか。遠目に見て、RC桁だと思われます。RCとはReinforced-Concrete=鉄筋コンクリートのことです。

そして日原川の反対側を見れば、RCアーチ橋が架かっています。日原川橋梁です。木々が育って全容は掴みにくいですが橋梁は左カーブしており、半円を描きながらV字谷の日原川を渡っていきます。構造は短スパンのRC桁が連続し、日原川部分はRCアーチ橋が跨いでいます。

日原川橋梁の勇姿。左にカーブしている。
日原川橋梁の勇姿。左にカーブしている。

径間は46mあり、1950年代の建設時では最大規模でした。アーチ部分は対岸の日原街道からも拝めます。対岸から見るRCアーチ橋をよく凝視すると、路盤部に草に埋れた線路が確認できました。

氷川工場と奥多摩の山々を入れて。アーチ部分にE233系が走る姿を妄想していた。
氷川工場と奥多摩の山々を入れて。アーチ部分にE233系が走る姿を妄想していた。

ところで、小河内線は貨物輸送終了後に観光列車を走らせる計画と書きましたが、建設時から観光輸送を見込んで設計されました。大型車両が走れるよう急曲線を和らげ、トンネル断面は架線を通して電化に対応できるよう、大きめに建設されたのです。建設時は西武鉄道の譲渡より前ですから、都から国鉄路線へ編入することも視野にいれていたのかもしれませんね。

もし仮に青梅線の延長として現役だとしたら、このRCアーチ橋にもE233系が走っていたことでしょう。対岸から橋梁を眺めるこの場所は、きっとお立ち台撮影地になっただろうと、ひとり納得してしまいました。

日原川橋梁のアーチ部分手前の桁。集落へ至る小道から近寄って観察できる。
日原川橋梁のアーチ部分手前の桁。集落へ至る小道から近寄って観察できる。
RC構造の桁(RC桁)であり見た目は損傷など見受けられない。なお橋梁の先は第二氷川トンネルだ。写真右を見ると分かるがバリケードされていて立入禁止である。
RC構造の桁(RC桁)であり見た目は損傷など見受けられない。なお橋梁の先は第二氷川トンネルだ。写真右を見ると分かるがバリケードされていて立入禁止である。
橋の上部は立入禁止のため気をつけよう。数十年前はこの辺まで奥多摩工業の貨車が留置されていた記憶がある。
橋の上部は立入禁止のため気をつけよう。数十年前はこの辺まで奥多摩工業の貨車が留置されていた記憶がある。

さて、小河内線は日原川橋梁のあと第二氷川トンネルとなります。そこへのアクセスは立入禁止のため、再度奥多摩駅から青梅街道を進み、コンビニと保育園のある交差点を右折。「奥多摩むかし道」の看板を横目に見つつ、細い道をクネクネ登っていくと、出ました!白いRC桁が。

第二氷川橋梁。氷川集落へ向かう生活道の途中で現れる。右手の立札には「元巣の森の杉」と記されていた。
第二氷川橋梁。氷川集落へ向かう生活道の途中で現れる。右手の立札には「元巣の森の杉」と記されていた。

旧家の門構えのように、登り坂の道の真上を圧迫しながら架かる桁は、紛れもなく鉄道のもの。コンクリート側面は崩壊の兆しもなくしっかりとしており、遺構ではなく現役の桁に感じられます。小河内線の桁はこの後も飽きるほど見られますが、間近で触れられるのは此処なので、しっかりと桁の裏側も観察できます。

近づいて観察してみる。橋脚部分には雨水の浸食が見受けられるものの全体的には破損箇所が見当たらない。T形桁特有の裏側が大きく窪んだ構造がよくわかる。
近づいて観察してみる。橋脚部分には雨水の浸食が見受けられるものの全体的には破損箇所が見当たらない。T形桁特有の裏側が大きく窪んだ構造がよくわかる。

RC桁は肉厚で、裏側はボコっと凹んでます。それを支える橋脚は、のっぺらとして妖怪ぬりかべの如く無表情です。まぁ、当たり前ですよね(笑) この装飾のない無味乾燥に思える構造が、周囲に溶け込むような…逆に違和感あるような…なんとも絶妙な立ち位置にあるのがグッときます。

桁の裏側を覗きます。断面が「TT」の形状となったT形桁といわれるもので、昭和初期から使用開始されたタイプです。RC桁は大正後期から研究されたそうで、戦後は急速に普及していきます。小河内線は大部分でRC桁が多用されていますね。奥多摩はコンクリートの原料となる石灰石の産出が盛んで、地産地消ではないけど原料の調達が容易だったからかと思いましたが、実際はどうなのでしょうか。

橋梁を潜って振り向いてみる。ガードレールがあって行けるかなと思ったが立入禁止であった。
橋梁を潜って振り向いてみる。ガードレールがあって行けるかなと思ったが立入禁止であった。

目の前の桁はガードレールがあり、何かの道になっていますが、立入禁止の看板があるため入れません。登ってきた道を戻ります。と、さきほどの「奥多摩むかし道」入口に戻ってきます。ここからはこの道を歩いていきます。廃線跡はむかし道に沿ってあるのです。

橋梁の先は生活道と同じレベル面になるが敷地には入れない。線路は撤去されている。右手の背後には奥多摩駅停車中のE233系が遠望できる。
橋梁の先は生活道と同じレベル面になるが敷地には入れない。線路は撤去されている。右手の背後には奥多摩駅停車中のE233系が遠望できる。
上写真から振り向いた所の路盤。うっすらと平坦な草道が廃線跡である。
上写真から振り向いた所の路盤。うっすらと平坦な草道が廃線跡である。

奥多摩むかし道に沿いから遥拝する線路と朽ちた橋梁

奥多摩むかし道は旧青梅街道でした。車も走れないほどの狭い幅の道が街道だったんですね。平日休日問わず、心地よい季節となるとハイカー達の歩く姿が絶えません。道は少々きつめの登り坂となります。夏は緑が、秋は紅葉が美しい散策道です。

石垣が見えてくると何やらポッカリと開くものが…
石垣が見えてくると何やらポッカリと開くものが…

右手に石垣が見えてきました。石垣の上部は平坦で、何か道がある気配。そのまま歩くと石垣の上部が判明しました。小河内線です。むかし道は線路と交差しており(いわゆる踏切)、その場所から前後の廃線跡が観察できます。奥多摩駅方向の路盤は草木に埋れつつありますが、線路も顔を出しています。線路を目で追っていくと… 「!」奥に第三氷川トンネルの口がポッカリと開いているではありませんか♪

踏切?に到達すると柵の向こうに第三氷川トンネルが! 看板の「コレコレ」といういたずら書きは何を意味するのだろう。
踏切?に到達すると柵の向こうに第三氷川トンネルが! 看板の「コレコレ」といういたずら書きは何を意味するのだろう。
柵からちょっと覗く。線路は草に埋れつつあるがトンネルはしっかりと口を開けている。
柵からちょっと覗く。線路は草に埋れつつあるがトンネルはしっかりと口を開けている。

そのまま引き寄せられて異界に連れてかれそうな、鬱蒼とした草木の先にあるトンネルの闇。たまりません。廃トンネルはこうして少し離れた距離から、口を開けた姿を見るのが好きです。周りが森になっていればいるほど良いですね。

反対側は第一弁天橋橋梁。だからコレコレって何なんだろう。かつてテレビ局の企画でこの辺の線路を再整備して廃線復活みたいな番組があったそうだが、その痕跡も分からぬほど朽ちてきた。
反対側は第一弁天橋橋梁。だからコレコレって何なんだろう。かつてテレビ局の企画でこの辺の線路を再整備して廃線復活みたいな番組があったそうだが、その痕跡も分からぬほど朽ちてきた。

で、トンネルの反対側は第一弁天橋橋梁が見えます。この橋梁はRC桁ではなく上路式プレートガーダ橋のようです。のようですというのは、近寄って確認できないからです。向かって左手は急斜面、右手はむかし道ですが登り坂です。

右手のむかし道を登って振り向く。すぐ目の前はプレートガーダ橋だ。橋梁上部に水道管らしきものが通っている。
右手のむかし道を登って振り向く。すぐ目の前はプレートガーダ橋だ。橋梁上部に水道管らしきものが通っている。

道から観察する限り線路は敷かれたままですが、橋梁上の枕木が苔むして朽ちています。松の葉などが覆いかぶさり、鉄橋ながら木橋のオーラが漂っています。苔むしているからですかね。

踏切?から橋梁部分を覗いてみる。いつ崩れてもおかしくないほど枕木は腐りかけていそうだ。
踏切?から橋梁部分を覗いてみる。いつ崩れてもおかしくないほど枕木は腐りかけていそうだ。

むかし道のほうが高い位置となり、眼下を覗くと線路はそのまま途切れることなく続き、

剥がされないままの線路脇の枕木は苔むしてきている。
剥がされないままの線路脇の枕木は苔むしてきている。
松の葉も堆積している。橋梁は崖にへばりついているようだ。
松の葉も堆積している。橋梁は崖にへばりついているようだ。

切り通しとなり、

切り通しを上から覗ける。線路も顔を出している。深い森の中にある切り通しって神秘的だ。
切り通しを上から覗ける。線路も顔を出している。深い森の中にある切り通しって神秘的だ。

今度はRC桁となり…。桁の上は木々が育っていて、絵に描いたような廃線跡ってこんな姿だよなぁと、思わず目を細めました。

再びRC桁となった第二弁天橋橋梁。ああ、線路が……。
再びRC桁となった第二弁天橋橋梁。ああ、線路が……。

道は山の稜線に沿って小川を渡ります。そこから小河内線を遠望できるのですが、松の木の奥に草木を陽光で光らせながら佇む第二弁天橋のRC桁を眺め、ありがたい気持ちになってきました。

森の中にある橋梁は美しい……。
森の中にある橋梁は美しい……。
草どころか若木までもが育つ橋梁。神々しくなってきた。
草どころか若木までもが育つ橋梁。神々しくなってきた。

遠く手の届かない壁面に彫られた仏を拝むが如く。これはそう「遥拝」です。RC桁を神仏にするのは、はたから見て「え?」と思われそうですが、もう心の中では手を合わせて拝んでいます。

近づきたくても近づけない存在がいい。このままそっとしておきたい。
近づきたくても近づけない存在がいい。このままそっとしておきたい。
森の一部へと還っていく。自然と一体化する仏を連想させる。不思議と日々の疲れとストレスが解放されていく…….。
森の一部へと還っていく。自然と一体化する仏を連想させる。不思議と日々の疲れとストレスが解放されていく…….。

むかし道は第四氷川トンネルの真上に出ます。真上から線路を拝めるのです。それだけでなく、「ハエタタキ」と呼ばれる旧式の電信柱も残っています。ひょっとしたらむかし道が青梅街道であった頃のものかもしれませんが、線路脇に立つ位置からして小河内線のものと思われます。よくも残っていたな。ハエタタキを拝みながら小休止。この後は一旦廃線跡と別れます。

むかし道から見えたハエタタキ。宮沢賢治が小説の主人公にしたのも分かるほど、どこか人間味のある姿だ。このまま風雪に耐えてハイカーや廃もの散策者を出迎えてほしい。
むかし道から見えたハエタタキ。宮沢賢治が小説の主人公にしたのも分かるほど、どこか人間味のある姿だ。このまま風雪に耐えてハイカーや廃もの散策者を出迎えてほしい。

さぁ、次回はむかし道に沿いながら小河内線を追います。

前回は第三氷川橋梁までの探索でした。後半は終点の水根まで「奥多摩むかし道」を歩きながら巡ります。緑茂る奥多摩とはいえ、夏場だとかなり暑くなります。訪れたのは6月と11月で、6月はまぁまぁ汗だくになりました。11月はまだ身震いするほどの寒さではなかったから、落葉に近い紅葉と遺構の対比が美しかったですね。奥多摩むかし道は、車一台分の幅の生活道路と合流します。小河内線は第四氷川トンネルで抜けています。むかし道の整備で設置されたトイレで小休止。ここから先はこの生活道路がむかし道となります。たまに車が来るので気をつけましょう。

取材・文・撮影=吉永陽一