文士たちが集った「早稲田文庫」の歴史を受け継ぐ老舗喫茶

吉祥寺駅から歩いておよそ4分。東急百貨展のほど近くにある『茶房 武蔵野文庫』は、36年前から変わらずこの地に佇む老舗の喫茶店だ。木で作られた看板や扉からも、その趣を感じられる。

店内に入ってからも、木製のテーブルや椅子などから木の温もりを感じられる。これらの内装は、創業当時から変わらない。また、お店のレシピや店内に飾られた蔵書、工芸品などの一部は「前の店から引き継いだもの」だと、店主の日下さんが教えてくれた。

実はこの店、開業は昭和60年だが、開業までにはもうひとつのストーリーがある。

店に飾られた工芸品は、前の店から譲り受けたものや、日下さんの私物が混ざっている。
店に飾られた工芸品は、前の店から譲り受けたものや、日下さんの私物が混ざっている。

戦後間もない頃、早稲田大学の近くに学生や先生のために開放された、日本家屋を改築した学生サロンのような場所があった。当時は早大生を始め、井伏鱒二や五木寛之ら稲門文士たちの集いの場となっていて、それが後に「早稲田文庫」という喫茶店になった。店名に「文庫」をつけたのは、東大の文士たちが開いた『鎌倉文庫』が由来なのだとか。

それから「早稲田文庫」は惜しまれつつも閉店することになるが、そこで当時スタッフとして働いてた日下さんが店の名前を受け継ぎ、吉祥寺で新たに『武蔵野文庫』を始めた。

店内には「早稲田文庫」から引き継いだ数々の蔵書や工芸品が残されているが、その中のひとつが、壁にさりげなく飾ってある書。これは『山椒魚』や『黒い雨』など数々の名著を手掛けた小説家・井伏鱒二による書で「早稲田文庫」のオーナと井伏氏が親しかったことから書いてくれたものだ。

貴重な品なので、これまで各所から貸し出しや買い取りの依頼があったそうだが、「ぷらっと立ち寄った町の喫茶店に飾ってあった方が、みんな“なにこれ?”って見るじゃない」と日下さん。最初は本物と思わない人もいるそうだが、日下さんは「それでいいんだ」と笑う。この店に訪れたら、飲食や会話の合間に少し顔を上げて、ぜひ店内の雰囲気も味ってみてほしい。

創業から変わらない、定番の焼きリンゴとクリームソーダ

前のオーナーからレシピを受け継いだ、焼きリンゴ700円。日下さんは50年の付き合いだという。
前のオーナーからレシピを受け継いだ、焼きリンゴ700円。日下さんは50年の付き合いだという。

そんな同店で、寒くなるこれからの時期にぴったりなメニューが、毎年10月から2月までの期間限定で提供している焼きリンゴ。1日に提供できる数に限りがあり、焼き上がったらすぐに売り切れてしまうほどの人気メニューだ。この日はラスト1個をギリギリいただくことができた。

「早稲田文庫」時代から受け継がれる焼きリンゴだが、見た目からは想像もできないほど手間暇がかかっている。そのスタートは、りんごの仕入れから。アップルパイなどにも重宝される品種の「紅玉」を使うが、ちょうど良い焼き具合・食べ具合になる大きさのりんごを仕入れるのがとても難しいのだそう。大きな市場などでも入手が困難なため、知り合いの八百屋からしか仕入れられないという。

ピーッピーッという音が響き、オーブンから取り出された焼きリンゴ。大きさは美しいほど均一。
ピーッピーッという音が響き、オーブンから取り出された焼きリンゴ。大きさは美しいほど均一。

仕入れの段階でも一苦労だが、調理にも手間を惜しまない。まずはりんごの芯をくり抜き、真ん中の空いた場所には種のイメージでレーズンをたっぷりと詰める。続いてシナモンや砂糖で味つけし、水とザラメを敷き、ラム酒を少し足して香りづけ。それをオーブンで蒸し焼きにする。また、焼く前にりんご一つ一つに手作業で穴をあけて、形を崩れないようにしているのだそう。

こうした昔ながらの調理方法で手間暇かけて作られた焼きリンゴは、口に入れた瞬間、とろとろとジューシーに溶けていく。りんごのほど良い酸味とシナモンの香り、豊かなラム酒とレーズンの風味が重なり、シンプルな見た目からは想像もできないほど複雑な味わいだ。

口溶けがとてもいいので、まるまる一個のりんごを使っているのにも関わらず、不思議なほどペロリと食べられてしまう。「食べたら感動するよ?」と言っていた日下さんの言葉通り、今までに出会ったことのない絶品だった。

鮮やかな色合いが印象的なクリームソーダ750円。
鮮やかな色合いが印象的なクリームソーダ750円。

次にいただいたのが、これも創業から変わらない定番のドリンクメニュー、クリームソーダ。クリームソーダはグリーンがおなじみだが、目が覚めるほどの鮮やかなイエローが印象的。もちろん“インスタ映え”を狙って作られたメニューではないが、思わず写真に残したくなる鮮やかさだ。

見た目の通り、味わいは爽やかなレモン風味。シロップの甘さとシュワシュワとした口当たりは、どこか懐かしさを感じさせてくれる。

日下さんの“ソーダ水との出会い”は、中学生の修学旅行だったそう。生まれて初めて飲んだソーダ水の味に感動し、それが印象に残っていたと話してくれた。このクリームソーダも、飲んだ人がそれぞれの子ども時代を思い出すような、昔懐かしい味わいだった。

昭和時代から変わらない空間の中で、焼きリンゴとクリームソーダをゆっくりと味わったあとは、不思議と心が温まる気持ちになった。

「歴史があるって言うほど、おおげさじゃないよ」と朗らかに言う日下さんだが、変化していく吉祥寺という町の片隅で変わらず営み続ける『茶房 武蔵野文庫』は、まるで「おかえり」と言ってくれているような安らぎを与えてくれた。

取材・文・撮影=稲垣恵美