よく行くのは東関道。都心からくだっていくと北関東の我がふるさとへ続きます。走り慣れた道です。海風を感じる広々とした道路で気持ちいいというのもありますが、心に染み入ってくる風景がいいのです。東京の果て、埋立地の風景。なんというものもなく、高架橋の防音壁の向こうに工場や巨大倉庫など建物の頭がちょこんと出ているばかり。アクセントとして、夢の国のシンデレラ城が遠くに見えたり。灰色の高架橋、ひとの気配のなさ、広漠さ、街から突き放されたようなこの寂しさ。「殺伐の癒やし」ともいうべき趣きがフロントガラス内に染み通ってきます。

途中、船橋あたりまでくると左手に見えてくるのが、ららぽーとの立体駐車場。これが目に入った瞬間、殺伐の愉楽がちょっと変質し、せつなさになってきます。

「俺と母ちゃんはな、あそこでデートしたんだ」

30年ほど前、この道をくだるのではなく、よくのぼっていました。親父の運転する車の後部座席で。都内に住む伯母のアパートに遊びにいく道すがら、ドライブに倦(う)んだ小学生の私は「あと何分で着く?」とひっきりなしに父母に聞き困らせていました。まあ……いまもせっかちは全然なおってないですが。生き急ぐ中年。

さて、せわしい息子の質問攻撃の勢いを削ぐため、親父はいつもこのあたりで同じ話をします。当時、ららぽーとはまだありませんでした。

「俺と母ちゃんはな、あそこでデートしたんだ。床が動くレストランな」

親父の自慢話に、助手席の母は無言。はにかんでいるのか後部座席から表情は見えません。

田舎者の錯覚か幼き日の記憶だからか、高速道路上の空気は煤煙で白っぽい。親父が指す先、東関東自動車道上り線、防音壁のすぐ脇には、望楼のような、UFOが着陸したような回転部分を冠にした小ぶりのビルが、白く霞みながらも確かに浮かびあがっていました。「回転レストラン」です。

昭和56年開業の、「船橋そごう」の展望レストランでした。運営は「ホテルオークラ」。当時2歳の私はどこかに預けられ、親父が見栄を張って母を連れていったに違いありません。トラック野郎として早朝から深夜まで走り通し、時には二晩三晩帰れない男と、年寄りの世話と子育てで疲れ切った女は、360度の眺望を楽しみながらハレの日の食事を楽しんだのでしょう。「頑張って、また来れるように」。若い二人はそう思ったはずです。

後年知ったのですが、そもそも回転レストランができる前、この土地には「船橋ヘルスセンター」(昭和30〜52年)がありました。プールや温泉のある昭和の複合娯楽施設でしたが、入場料を低めに設定したこともあって、開業するや戦後荒廃期からようやく一息つけるようになった庶民でごったがえしたと聞きます。ただ、この味のある昭和の施設の名自体は、うちの親父お得意のエンドレス思い出話によって随分前から私は知っていました。

親父が子供のころ、たった一度だけ出かけた家族旅行の行き先だったのです。タクシーやトラックの運転手をしていた祖父は若いころ、とても旅行などに連れ出す余裕はなく、祖母もまた建設作業や農家の手伝いで働きづめで家を空けられませんでした。ようやく食えるようになったころ出かけた、生涯一度だった家族旅行の思い出を、親父は私に繰り返し語りました。昭和40年代初頭でしょう。芋洗状態のプールを背景に、祖父と祖母、あおッぱなを垂らした父と叔父が写る写真が、一枚だけ実家にあります。

高度成長期、バブル期前夜と15年ほどの時を挟み、汗をたぎらせ働く二つの世代に豊かさの予感を与えた地。私はあの埋立地の一角をそんなふうに思います。

戦艦大和の砲台と同じ技術が使われていた

回転レストランの話に戻りますが、そういえば首都圏でも近年までわずかに残っていましたよね。「柏そごう」にもありましたし(2016年まで営業)、有楽町の東京交通会館のは惜しくも昨年(2020年)に回転をやめました。紀尾井町の「ニューオータニ」(2018年まで回転)は、私も食事をしたことがありますが、戦艦大和と同様のベアリングが使われていたとか。

2016年9月に閉店した「柏そごう」。
JR有楽町駅前すぐの「東京交通会館」。

大和の主砲塔は駆逐艦一隻分、約3千トンもあり、これほどの重量物を正確に動かすため高度な技術が求められました。ホテルの開業は昭和39年、昭和東京五輪の年。東洋一のサイズの回転ラウンジを、ワイングラスは倒さずに滑らかに動かすためこの技術が使われたのです。戦前戦中に溜められた軍事技術をも飲み込み高度成長しようとするこの国の気負いに、私はやっぱり、明るさをみます。

「ホテルニューオータニ」。

そうそう、あそこでは別な思い出もあります。90年代後半の学生のころ、突如親父に呼び出されたことがありました。最上階、ゆっくり回る展望フロアに足を踏み入れた瞬間、響き渡ってくる聞き覚えのあるドデカい二つの笑い声。万年借金だらけの運送屋のあるじになっていた親父と、親友の土建屋さんの社長さんでした。ふたりともどうみてもカタギには見えませんでしたが、真面目によく働く男たちでした。上京して、いい歳して、舞い上がって、ワインを水みたいに飲んでいました。やっぱり、ゆるゆるとうごく展望席がこのときも、可愛げのある昭和の中年男たちに一時の夢をみせていたのでしょう。

子供だましかもしれないけれど

私が大きくなり、「あと何分?」を言わなくなったころ、親父もいつしかあの短い物語をしなくなり、その後、本人も望楼も姿を消しました。回転するあの展望フロア、いまの感覚で見てみたら正直、子供だましのギミックかもしれません。「動くからなんだ?」と驚かない大人も多いでしょう。

それでも確かにあのころ、祖父母も父母も、地べたから一歩豊かさへ、のびやか
な空へと、間違いなく近づくことができたのでした。

私もぎりぎり体験できた展望レストラン。フロア全体がゆったりと回って行くあの独特の動きを思い出すたび、ベタですが、映画のように記憶の奥からいくつものシーンがすべりだしてきてしまい、文字数オーバーしようと止められませんでした。すみません。望楼の回転は着実にフィルムを再生し続けましたが、今、巻き取りきって上映を終えたように思えます。映っていたのは、この国の近代だったでしょう。

さあボロ車の車窓風景は移り変わってきました。ガラス張りの高層オフィスビルが目に入っては流れていきます。目を凝らしても塔のごとき建物が映ることはありません。ただひとつ嬉しいのは、ボロ車で埋立地を走る私の内部にも、空へ近づきたい子供じみた気持ちは、しっかり、受け継がれていることです。

文=フリート横田