小野正弘 先生
国語学者。明治大学文学部教授。「三省堂現代新国語辞典 第六版」の編集主幹。専門は、日本語の歴史(語彙・文字・意味)。

変わり続けた「散歩」の意味

小野先生 : 多くの日本語がそうであるように、「散歩」はもともと中国のことばで、日本に輸入された概念です。ただ、もともとは「食後に消化を助けるために歩く」という意味でした。いわば「腹ごなし」ですね。

筆者 : 私たちの「散歩」と意味合いは少し違いますね。腹ごなしに歩くこともありますが、そのためだけではない……。

小野先生 : 日本では「散歩」より早い奈良時代ごろから、「逍遥(しょうよう)」が使われていましたが、「逍遙」は、散歩することよりもそのことによって俗事を離れることに主眼が置かれたりもしました。「散歩」が「腹ごなし」を意味するところから、逆に、それまでの「逍遙」を「消揺=消化のために体を揺らす」といった説もうまれたようです。

筆者 : 日本で「散歩」が使われはじめたのはいつごろなのでしょうか?

小野先生 : 室町時代のことです。虎関師錬という有名な禅僧が、漢詩集「済北集」に登場させています。しかし、腹ごなしではなく、「坂や岡をあてどもなく歩く」といった意味合いで用いられています。その後に、「細い道を見出し、禅の修行をする部屋に入る」という文脈が続いています。

筆者 : だいぶ、私たちが今つかっている「散歩」に近づいた気がします。特に目的はないけれど、歩いていると何かしらの出会いがある、というニュアンスですね。

小野先生 : そうですね。ただ、お坊さんの詩であることがポイントです。虎関師錬の真意は、「目的を持たずになにかを行なっていくうちに、新しい道が見つかり自然に足を踏み入れていく。それこそが、悟りの境地である」とったところでしょう。つまり、悟りを開くために散歩するのではなく、あてどなく散歩するうちに、悟りへの道が開けてくる、という感じです。

筆者 : そんな高尚な意味がこめられていたとは!

小野先生 : お坊さんは、最先端で文化を牽引する存在でした。室町時代の人にとって、「散歩」はトレンディなことばであり、行為でもあったと思います。

ゆとりがなければ「散歩」はできない

小野先生 : 時代がくだり、明治になると「散歩」は別の意味を持つようになりました。
夏目漱石の『吾輩は猫である』に「吾輩は近頃運動を始めた。」という一節があります。ここでいう「運動」は走ったり、筋トレしたり、あるいは何かスポーツをプレーすることではなく、健康のために歩くこと。「散歩」も「運動」と同じ意味で使われました。

筆者 : 「散歩」に健康という目的が加えられたわけですね。

小野先生 : 日本はかつては中国の、明治になってからは西洋の文化をお手本にしてきました。「目的もなく歩く」という行為は、西洋流の合理的な考え方からすると、改められなければならなかったのかもしれません。

筆者 : 現代では、「ウォーキング」などのことばが、健康のために歩くことを指しているように思います。「散歩」は室町時代のように特に目的がない、というか、歩くこと自体が目的になっているような行為を指しますよね。

小野先生 : はい。現代の「散歩」は「そぞろ歩き」です。「気もそぞろ」というように、「そぞろ」とは、何かに集中していない状態を指します。「散らす」「散る」という表現はぴったりです。
実は、明治から現代にかけて、いつごろ「散歩」の意味合いが変わったかは、明確にわかっていません。個人的には、目的なく歩く行為が定着したのは、ごく最近、直近30年くらいのことではないかと思います。
戦後から高度成長期、バブル期と、日本人はとにかく忙しくしていました。誰もが目的地に向かって早足で歩いていた気がします。私もジョギングのようなスピードで歩いていましたから(笑)。

筆者 : 雑誌『散歩の達人』の創刊も、バブル崩壊後の1996年。良くも悪くも、時間的な余裕を持ちはじめたときだったのかもしれません。

小野先生 : 特定の目的を持たず、風景やお店、人との出会いを楽しみながら歩くなんて、心にもゆとりがなければできません。室町時代のお坊さんがしたように、現代の「散歩」は文化的で贅沢な楽しみだと言えます。

取材・文=小越建典(ソルバ!)