1964年大会の2年後にスタートした日本の新体操の歴史
キラッキラだわ! テストイベントで初めての新体操に感動した。後ろに投げたボールを相手が背中で受けたり、フープの中をすり抜けたり。出場したのは日本代表フェアリージャパンPOLAと、東京女子体育大学新体操部員。
後日、東京女子体育大学で大学生選手の指導に当たる秋山エリカさんにお話をうかがった。
まずは新体操の歴史。なんと日本における発祥は当校。彼女の師である藤島八重子さんと加茂佳子さんが、1966年にヨーロッパで視察し感動して2年後に世界大会に出場した。西欧では芸術体育などと呼ばれたが、「常に新しい感覚で創る」という思いで新体操と名付けたのもこの時だ。
そして83年に当校新体操部に入部したのが秋山さんだった。大学1年生にしていきなり日本代表選手に。
「運がよかったんです。他の選手と違って私は小さい頃からバレエを習っていたので」と秋山さん。このころ海外では新体操に芸術性が重視されバレエの要素が取り入れられたのだ。やがて2度のオリンピック出場など経験を積んで「日本人である自分の演技」を編み出し喝采(かっさい)を浴びた。
引退後は指導法を学びにソ連に留学。小さい頃からオリンピックで金メダルを目指すきめ細かな指導を学んだ。
「厳しいですよ。体格や手足の長さ、柔軟性を見てどんどん落とす」。
実は現在の日本代表選手も子供のころから新体操を習い、多くが中高生のうちに選ばれる仕組みだ。秋山さんの時代のように、大学生が実力で日本代表にはなるのは難しいとか。
教え子の大学生たちは17時まで授業、それから部活動として日々新体操の練習に励むという。
「楽しそうです。今回のテストイベントにも皆で出ました」と秋山さんはニッコリ。
選手たちの心の中だけに輝く、有明体操競技場という聖地
ところで1964年大会での会場は東京体育館だった。同年生まれの秋山さんだが、この会場は自身の引退試合など思い出深い。
「あの時代によくあんな大きなものを建てられたなあと感動したものです」と回想する。改築後も各体操競技選手には聖地的存在で、国際大会なども行われる。
でも2020年大会会場の有明体操競技場は、別な利用法が待つ施設。ただ、全国から集まった木材を多用してつくられた会場は、観客にも競技者にも印象的だ。だからこそ有明体操競技場でのあの一日は学生たちには貴重な体験として、心の中にキラキラと刻まれるのだろう。
有明体操競技場
木場の心意気が盛り込まれた「巨大な木の器」
「もとは昭和10年(1935)ごろできた有明埋め立て地の北側に面した海の貯木場で、周辺は木材団地。東京都の臨海副都心計画で2005年に埋め立て完了。16年の大会招致時には選手村候補地にも」と東京都港湾振興協会事務局長の海寶博氏さん。
今大会招致計画では仮設施設だったが、1万人規模の建物には安全性・耐震性などが必要なため、長期利用も可能な建築となっている。大会後は撤去せず都が展示会場として活用予定。
東京体育館
国際試合も行われる体操の聖地
江戸時代から紀州徳川家の所有地。昭和18年(1943)に、東京府が国民の士気高揚のために錬成場として土地と建物を買収。戦後はGHQ接収後、1954年に世界レスリング大会競技場として建築。
10年後、オリンピックのために傷んだ壁や天井、蒸し風呂をシャワー室にするなどの大改修工事をした。暗い照明や聞こえづらい音響、騒音の激しすぎる換気ファンの設備も大々的に改修、と都の資料に記されている。
取材・文=眞鍋じゅんこ 撮影=鴇田康則
『散歩の達人』2021年7月号より