浅草・かっぱ橋本通り沿いにひっそりたたずむ席数8の小さな店

かっぱ橋本通りにある『佐藤』。店を一歩出ると、スカイツリーが見える。
かっぱ橋本通りにある『佐藤』。店を一歩出ると、スカイツリーが見える。

つくばエクスプレスの浅草駅から徒歩3分。かっぱ橋本通りにある『佐藤』は、カウンターだけの小さな洋食店だ。ランチタイム終了間際に訪れると、席数わずか8席の細長い店内には牛タンシチューを味わう女性のおひとりさまの姿があった。

『佐藤』の外観。ブルーのビニールテントが目印だ。
『佐藤』の外観。ブルーのビニールテントが目印だ。

店主の佐藤さんが洋食店『佐藤』がオープンしたのは、2012年のこと。

「観光地なら黙っていても人が集まるという希望を胸に、東陽町の店をたたんで浅草に出店したが、そうは問屋が卸さなかった」。

佐藤さんは小さな声で淡々と語る。

努力しなくても人がくるというのは幻想だった。だがある時、テレビ局が取材にきて状況は一変。当初はハンバーグやエビフライなど、洋食屋にありがちなメニューを片っぱしから提供していたが、佐藤さんの予想に反して牛タンシチューの人気が沸騰し、気づけば店の看板メニューになっていたという。

こだわりはない、できることを根気よくこなしているだけ

わずか8席のこぢんまりとした店内。通路が狭いが、居心地は満点だ。
わずか8席のこぢんまりとした店内。通路が狭いが、居心地は満点だ。

そもそも、洋食屋を目指したわけではない。

若い頃は芝生屋として生計を立てていたという佐藤さん。堤防やゴルフ場に芝生を張る会社に勤めていたが、ある時、出向中のゴルフ場が開店準備中に倒産してしまう。ところが、中途半端な状態で放置するわけにはいかないと、関わっていた業者らが一念発起し開場を目指すことに。佐藤さんはなぜか食堂の担当にまわされ、右も左もわからない状態で料理の道へと足を踏み入れたそう。

ジャガイモや玉ねぎの皮むきから懇切丁寧に指導してくれた当時の上司が、のちに洋食店をオープン。佐藤さんはそこで洋食の腕を磨いていく。牛タンシチューは、師匠が教えてくれた料理のひとつだ。

メニューの多くは、客の要望を汲み取るうちにおのずと厳選された。そこにこだわりは存在しない。需要があれば作る。なければメニューから消えていく。

「こだわるようなもんは何もないんですよ」。

佐藤さんは笑って言う。謙遜しているふうでもない。料理やメニューだけでなく、店の経営や店に流れる軽快なジャズについても話を振ってみたが、こだわりはとくにないという。

「BGMのジャズは、有線放送の担当営業が設定してくれたからかけているだけ。変にいじって戻せなくなると困るから、電源ボタン以外は触らない」。

なるほど、わかりやすい。

店名と同じ名前の焼酎「佐藤」は、プレミアム級の人気銘柄。
店名と同じ名前の焼酎「佐藤」は、プレミアム級の人気銘柄。

カウンターの隅には、少量生産ゆえに入手困難といわれる焼酎「佐藤」が並んでいた。お店の名前にちなんで取り寄せているのかと思いきや、「焼酎の種類が多すぎて、お客さんの希望を聞いてるときりがない。『佐藤』なら、うちの名前と同じ焼酎がイヤなら飲まないでって言えるでしょ」と返ってきた。なるほど、こちらも一理ある。

譲れないことがあるとすれば、牛タンシチューの価格設定だ。仕入れ価格は上がっているが、シチューの値段は一度も変えていない。今後も変えることはないだろうと佐藤さんは言い切る。

こだわりはなくとも、目の前の仕事はしっかりやる。たとえば、牛タンの下処理は徹底的に行う。一般に流通する状態に整えたあとも、独特の臭いや脂を取り除くべく、茹でては水を取り替えと気の遠くなるような作業を根気強く続けるのだ。

『佐藤』名物・牛タンシチューのほっぺたが落ちるうまさに悶絶!

牛タンシチューはサラダ、コンソメスープ、バケットまたはライス付きで1600円。
牛タンシチューはサラダ、コンソメスープ、バケットまたはライス付きで1600円。

牛タンシチューが運ばれてくると、あまりのボリュームに度肝を抜かれる。今回注文したのは通常メニューの牛タンシチューだが、3cm近い厚みの牛タンなんて見たことがない。ナイフを入れると、力を加えるまでもなくすんなり切れた。はふはふしながらほおばっていると、佐藤さんは「けっこうやわらかいでしょ」と得意げに聞いてくる。やわらかいどころじゃない、とろけそうだ。

洋食屋さんのシチューというと濃厚な味わいを想像するが、この店の牛タンシチューは意外にもさっぱりなめらか。「毎日食べられるシチューを目指している」という佐藤さんの言葉どおり、食べ飽きることがないのだ。

ランチタイム用の牛タンシチューは、サラダとスープ、バケットまたはライス付きで、なんと1000円。通常メニューとは肉の厚みや個数が異なるが、厚さ1cmほどの牛タンが3個入ってこの価格は文句のつけようがない。

「こんな値段で本当にいいんですか!?」という驚きの声が上がるのは日常のこと。
「こんな値段で本当にいいんですか!?」という驚きの声が上がるのは日常のこと。

なお、この日注文した牛タンシチューは、国内で出回る牛タンの中でも最高級の素材が使われているとのこと。なんでも、なじみの業者の得意先だった高級料亭が突然廃業し、行き場をなくした大量の肉を佐藤さんが買い取ったのだとか。牛タンの質には日頃から定評があるが、しばらくの間は、通常メニュー・ランチともに高級店の肉を提供するという。

テイクアウトは鍋とタッパ持参が基本

佐藤さんは70代。ここまで続けられたのが不思議だが、この先も体が動く限り、洋食を作っていきたいと語る。
佐藤さんは70代。ここまで続けられたのが不思議だが、この先も体が動く限り、洋食を作っていきたいと語る。

牛タンシチューをはじめとする『佐藤』の洋食は、自宅で温め直してもおいしくいただくことができる。いわゆるテイクアウトのサービスは行っていないが、鍋やタッパを持参した場合のみ、持ち帰り用に詰めてもらえるという。

「セットメニューでも、器が1つだとメインの料理しか渡せません。ごはんがほしい人は器2個、サラダも食べたい人には3つの器が必要です。近くの店までタッパを調達にいくお客さんも多いですね」。

浅草演芸ホールが近いこともあり、有名人もひんぱんに訪れる。林家三平さんもこの店の常連だ。
浅草演芸ホールが近いこともあり、有名人もひんぱんに訪れる。林家三平さんもこの店の常連だ。

『佐藤』の名物・牛タンシチューには、人の心をほっこり和ませる魅力がある。固まっていた心がほぐれていくようなやさしい味の根底に、佐藤さんの生きざまを垣間見た気がした。

住所:東京都台東区西浅草2-25-12-1F/営業時間:11:30〜14:00・17:00〜21:30LO/定休日:火/アクセス:つくばエクスプレス浅草駅から徒歩3分

構成=フリート 取材・文・撮影=村岡真理子

浅草寺とその参道である仲見世商店街を中心として東西に広がる浅草。世界的にも有名な観光地であり、一時は日本人よりも海外旅行者の方が目立っていたが、コロナ以後は江戸情緒あふれる“娯楽の殿堂”の風情が復活している。いわゆる下町の代表的繁華街であって浅草寺、雷門、仲見世通り、浅草サンバカーニバルなどの観光地的なイメージや、ホッピー通り、初音小路のような昼間から飲める飲んべえの町としてとらえている人も多いだろう。また、和・洋問わず高級・庶民派ともに食の名店も集中するエリアだ。