神奈川県北西部に広がる丹沢山地。塔ノ岳から丹沢山方面へ延びる主脈から、少し南西方向へ外れたところにあるのが鍋割(なべわり)山だ。そしてその頂に鍋割山荘は立っている。この山小屋の窓からかれこれ50年近く丹沢の山を、やって来る登山者の姿を眺め続けてきた小屋主・草野延孝さんにお話をうかがった。
草野さんが生まれたのは長崎県の有明町(現・島原市)。高校一年生になったときにはすでに山の魅力に目覚め、自宅から往復15㎞はある雲仙岳へ徒歩で頻繁に通っていたという。
やがて高知大学農学部へ進学し、山岳部へ入部したことがその後の人生に大きく影響したようだ。四国はもちろん、日本各地の山々へ通い詰め、登山の基礎を身につけた。彼が終生こだわりを持つことになった、歩荷(ボッカ・人力のみで山小屋へ荷物を担ぎ上げること)との出会いもこのころだった。
歩荷との初めての出会い
「あるとき岩登りをするために石鎚山に入ったところ、そこで巨大な荷物を担いで登ってくる若い女性に会ったんだ。近づいてみると、彼女はなんと自分と同じ山岳部に所属する唯一の女性部員。聞けば、山頂にある山小屋へ荷物を運びあげるアルバイト中というじゃないか。山に登ってお金ももらえるなんて、そんな素晴らしいことがあるのかと、すぐに私もやらせてもらうことにしたよ」
実は、入部当時の草野さんは重さ25㎏程度のリュックを背負うだけでも難儀し、下山後はしばらくは腕や指がマヒして動かなくなるほどだったという。
しかし、数々の山行で徐々に鍛え上げられていたのだろう。石鎚山頂上山荘への歩荷では、初日にいきなり50㎏、二日目は60㎏、三日目は62㎏とその荷物量を増やし、これには小屋の人間も舌を巻いたそうだ。
大学を卒業すると、草野さんはそのまま石鎚山頂上山荘で8カ月、歩荷専用のスタッフとして勤務。その間に担ぎ上げた荷物の総量は27tにも及んだという。
その後、このとき稼いだ資金でヒマラヤでの80日間に及ぶトレッキングへ。帰国後、木材関連の会社に2年半ほど勤務したところで出会ったのが 『鍋割山荘』 だった。
「どこか自分に運営を任せてくれる山小屋はないものかと探していたところ、『鍋割山荘』の先代が数箇月前に病気で急逝、小屋は閉められたままになっていてね。そこで働けることになったんだよ」
しかし当初の小屋は、決して彼が納得できる状態ではなかったそうだ。
「布団が5、6組あるだけで、茶碗すらも満足にそろってなかった。そこからお客さんに安心して泊まってもらえるようにするには、まずは小屋の整備から始めなくちゃならなかったよ」
問題はほかにもあった。それは山荘の立地だ。小屋が立っている鍋割山は、丹沢の主脈縦走路から微妙に外れており、丹沢の山をよく知る人からは、「鍋割山で山小屋を経営するのは、難しいよ」と何度も忠告も受けたという。
しかし、それでもくじけることなく小屋の増改築に取りかかった。経済的に余裕があるわけでも、ましてや行政などからの補助も受けられるわけでもない。頼りになるのは自分の肉体だけだ。
すべての資材を担いで小屋を増改築
このときに唯一の支えとなったのが、学生のころから鍛え上げてきた自分の歩荷力だった。70〜80㎏にもなる資材の歩荷を一日に2往復。それに加えて下界ではスーパーマーケットでも働くという激務。ようやく小屋を納得できる状態まで持っていけたときには、すでに3年近い年月が経っていた。
「そのころには、常連さんもついてくれるようになってね。少しずつ小屋の運営も軌道に乗ってきたんだ」
それから数年後、草野さんは南米のアコンカグアやヒマラヤのダウラギリなど、世界の名峰への遠征に赴いている。その間、小屋はいったいどうしていたのか不思議だったのだが、そんなときこそ常連客たちが一丸となって、交代で小屋番をしてくれていたそうだ。常連客との間には、すでにそんな関係性が出来あがっていたのである。
さて。『鍋割山荘』といえば名物の鍋焼きうどんである。具がたっぷり載った熱々の鍋焼きうどんは季節を問わず大人気。最近では鍋割山に登りにくるというよりも、この鍋焼きうどんを食べるためだけに往復6時間近い山道を歩いてやって来る人も少なくないらしい。
この鍋焼きうどんは、てっきり鍋割山という山名にかけて、当初から選ばれしメニューだと思っていたのだが、実はそうではなかった。
「最初はね、鍋焼きうどん以外にも、カレーライスとラーメンもあったの。でもね、カレーは全然売れなくて、早々に撤退。ラーメンは鍋焼きうどんの2〜3割ほどは出ていたんだけど、やがてその差が開き始め、10〜20分の1くらいしか出なくなったところで脱落。結局、鍋焼うどんだけになったんだよ」
選ばれしというよりは、生き残りし精鋭だったのか、鍋焼きうどん。
そんな草野さんに昔と現在の登山者の変遷を尋ねてみた。
「一番変わったのは年齢層だね。昔、中高年の登山ブームなんていわれていたころは、50〜60歳代の人たちばっかりだったよ。それが山ガールブームあり、トレラン(トレイルランニング)ブームありで、本当に若い人が増えた」
山にかぎらず、趣味の世界に若者が増えるのは悪いことではない。さもないと、その世界はやがてジリ貧に陥ってしまう。
「若い人が来てくれるのは大いにけっこうなんだけど、最近はSNSを始めとして、あまりに断片的な情報だけで山に登る人が多いなあ」
そうなのだ。これは近年、鍋割山のみならず、どこの山でも危惧されていること。どこに暮らすどんな力量のある人が、どんな天候で登ったのかもわからずに、「簡単でしたー!」と書きこまれたネット上の投稿だけを鵜呑(うの)みにして山に登ってしまう人が少なくないのだ。
「雪が降るような天候のなかをTシャツ一枚だけで震えながら歩いてきたり、日もとっぷり暮れたころに、ヘッドランプもなしにスマホの画面を照明代わりに登ってくる人がいたりして、山に慣れているこちらのほうが、逆に怖くてヒヤヒヤしちゃうよ」
昔であれば学校の山岳部や社会人山岳会などに入り、そこでしかるべき基礎を身につける。そしてまずは自分より技量に優れた人と同行することで、少しずつ経験を重ねていたものが、最近は初心者がいきなりぶっつけ本番で挑んでしまう。
それでも、痛い目に遭いつつも無事下山できればいいが、その最初の失敗でいきなり命を失うこともあるのが山なのだ。
「ヘッドランプ、地図、レインウエア、防寒着、水、食料。山に来るときには、最低でもこれだけは持ってきてくれることを切に願います」
「この山があったからこそ生きてきた」
草野さんは今年72歳を迎える。若いころは100㎏超えの歩荷も数多くこなしていたが、最近は40㎏程度に抑えているという。
『鍋割山荘』自体も2020年から大晦日以外の宿泊業務はやめ、お昼の鍋焼きうどんも、原則、月・金は休むことにしたという。それでも整備などもあって、現在も一年のうち360日は小屋に上がっているとのこと。
「鍋割山は人生の三分の二を過ごしてきた場所。この山があったから鍛えられ、この山があったからこそ生きてきた。なんとか80歳になるくらいまでは上がり続けけたいなあ」
ちなみに若いころには168㎝あった草野さんの身長は、現在では160㎝になってしまったとのこと。もちろん加齢により背が縮むことはあるが、いくらなんでもこれは極端だ。
「80㎏、ときには100㎏を超えようという荷物をあまりに担ぎすぎるのは、もしかしたら身体にはよくないのかもしれないね」
最後に草野さんは、ちょっとおちゃめな表情を浮かべながら笑うのだった。
『鍋割山荘』詳細
取材・文・写真=佐藤徹也 撮影=逢坂聡(人物)
『散歩の達人』2021年3月号より