吉永陽一
吉永陽一(よしながよういち)
生まれも育ちも東京都だが大阪芸術大学写真学科卒業。空撮を扱う会社にて空撮キャリアを積み、長年の憧れであった鉄道空撮に取り組む。個展や書籍などで数々の空撮鉄道写真を発表。「空鉄」で注目を集める。ライフワークは鉄道空撮、6x6や4x5の鉄道情景や廃墟である。2018年4月、フジフイルムスクエアにて個展「いきづかい」を開催。2020年8月、渋谷にて個展「空鉄 うつろい 渋谷駅10年間の上空観察」を開催。

最近見かけたといえば、2年前にタイのアユタヤへ行ったとき、駅前にダイハツミゼットのコピー版トゥクトゥクが大量に走っていて、少々取り乱し気味に興奮してしまいました(笑)

私はオート三輪現役世代ではないけれども、その独特なフォルムが好きです。また学生の頃は、意外と身近な存在でした。

というのも、初めて実物に出会ったのは1990年代前半のこと。あきる野市秋川の空き地に、マツダT-2000型が遺棄されているのを見つけたのがファーストコンタクトです。丸っこいフォルムに三輪という姿を目の当たりにして、「こんな車があったのか」と、俄然興味が湧きました。そのT-2000型は動き出しそうな状態でしたが、既に廃車だったようで、撮影して数年後には無くなっていました。

1990年台前半の秋川で出会ったマツダT-2000型。いまにも動き出しそうである。
1990年台前半の秋川で出会ったマツダT-2000型。いまにも動き出しそうである。
屋根以外は原形を保っていたがいつの間にか消えた。レストアされて走っていることを願う。
屋根以外は原形を保っていたがいつの間にか消えた。レストアされて走っていることを願う。

大阪芸術大学の写真学科でヘロヘロと学生生活を送っているとき、周辺の羽曳野市ではブドウ畑が広がり、ブドウの低木へ近づけるとのことで、ダイハツミゼットが現役でした。そのため街中を車で走っていると、たまにミゼットとすれ違っていたのです。ミゼットは別名バタンコと言われ、よくコケたそうですが、車体を傾けながら夕刻の交差点を曲がるミゼット(おじいさん運転)を眺めて、「これはコケそうだ……」と妙に頷いていました。あとはたまにT-2000型とすれ違っていましたね。所有者は趣味の方みたいでしたが。

さて前振りが長くなりましたが、そんなこんなでオート三輪が好きなわけです。乗りたい気持ちもあるけれども、さすがに希少車ですし、四輪に慣れすぎているから扱い方は難しそう。「廃もの」として愛でるのが一番です。

今回紹介するのは東京都の西、県境の奥多摩町です。奥多摩周遊道路を走り「山のふるさと村」というレクリエーション施設を目指します。ここは自然体験施設で、キャンプ場や散策などができ、週末はにぎわいを見せます。駐車場から本部の建物を過ぎて階段を降りると、目の前は雑木林が広がり、奥のほうは奥多摩湖の畔が見えます。一見してごく普通の自然散策エリアなのですが、雑木林の傍らに何やら鉄の塊があるのです。

落ち葉や土と同化しているオート三輪。左後輪は無くなっている。手前の鉄片もこの車のものだろう。
落ち葉や土と同化しているオート三輪。左後輪は無くなっている。手前の鉄片もこの車のものだろう。

近づいてみると、それはオート三輪でした。斜面の窪地に隠れるようにして放置され、車体を覆うようにして若い木が数本生えています。前輪にも、荷台脇にも、木が生えているのです。その姿はまるで、ラピュタに出てくる樹木に飲まれたロボット兵のごとく。ヘッドライトが丸目のため、正面から見ると何か人型ロボットが朽ちているような……。

手前の木を入れて縦位置で。車体の脇から若い木がスクスク育っている。
手前の木を入れて縦位置で。車体の脇から若い木がスクスク育っている。

このオート三輪は、ダイハツのSCB7型1トン車といい、1950年代に生産されたタイプです。バーハンドルタイプで800cc単気筒22馬力。キャブのドアはなく、ほぼオープン構造です。マツダT2000型やダイハツミゼットに比べ、簡素な出で立ちでした。

目の前に佇むSCB7型は、私がいままで出会ってきたオート三輪のなかで、一番古い型式のタイプです。屋根部分は無く、荷台の背は折れ曲がり、計器類も無く、荷台の板は朽ちて骨組みのみ。が、タイヤは一部装着されたままで、車の形を保っているのに驚きました。蜘蛛の巣に気をつけながら近づくと、単気筒エンジンや、ダッシュボードの骨格、センターフレーム(?)に残るギアがあります。どれも錆びて、もう二度と動くことはありませんが、生きていたときの姿が想像できます。

写真奥はちょっとした広場だ。人がいなければ森閑(しんかん)とした雑木林にSCB7型が佇んでいるようにみえる。
写真奥はちょっとした広場だ。人がいなければ森閑(しんかん)とした雑木林にSCB7型が佇んでいるようにみえる。

では、なぜここに放置されたのか? 一帯は、小河内ダムが完成して奥多摩湖となる以前、小河内村の集落がありました。このSCB7型はテレビで紹介されたことがあるのですが、「ダムが出来るとき、オート三輪は村に残された」とナレーションされていた記憶があります。その後確認は取ってないのですが、残されたということは、おおかた移転先へ持っていけないか壊れたからでしょう。疑問なのは、SCB7型は1950年代に製造されたタイプで、小河内村が廃村になったのが1955年。持ち主が購入した後、わずか数年で放置されて雑木林へと没したことになるのか? うーん……。

目の前の朽ちたSCB7型を前にして、色々と想像が広がります。こうやって想像が膨らむのも「廃もの」の醍醐味と言えましょうか。少なくとも、傍らに生えている木の幹の太さから察すると、約半世紀前から放置されていると推測でき、ずっとこの場にいたわけです。『山のふるさと村』が整備されたおかげで、誰でも容易にその姿を拝むことができるようになりました。

背後から。奥は奥多摩湖のほとり。かつてはこの辺りも集落があったという。
背後から。奥は奥多摩湖のほとり。かつてはこの辺りも集落があったという。

奥多摩に眠るオート三輪は、木々に没しているロケーションながらアクセスもしやすく、手軽に訪れられます。周辺もダム湖に沈んだ集落の痕跡があり、じっくり歩くと、さらにいろいろな想像が広がっていくのです。

写真・文=吉永陽一