初回の記事で述べたように、私は空撮が生業です。普段は東京ベースのため、調布飛行場から空撮用のセスナ機に搭乗して飛行する日々で、空撮を始めてかれこれ16年、調布飛行場へ通っています。この飛行場は陸軍航空隊の調布基地が前身で、いまは滑走路が南北に1本のみですが、戦時中は東西にもう1本ありました。戦時中の調布基地は、飛行第244戦隊の三式戦闘機「飛燕」や五式戦闘機が首都防空の要として奮闘し、終戦直後の9月時点では、飛燕や五式戦以外にも四式戦闘機「疾風」、特攻機の「剣」、試作高高度迎撃機「中島キ87」が、米軍へ引き渡されていました(ジェイムズ・P・ギャラガー著「ゼロの残照」イカロス出版に記載)。
私が調布飛行場へ出入りするようになったころ、先輩諸氏(空撮カメラマン、パイロット、整備士)からいろいろと調布の話を伺うと、平成初期までは基地時代の名残が点在していたそうで、屋根に管制塔があった大格納庫は、基地の名残を物語るシンボル的存在だったとか。その大格納庫は平成初期に解体されたそうです。平成の30年間に、調布飛行場は徐々に建物が建て替えられていきました。
さて、ほとんど遺構は無くなったと思われる調布飛行場ですが、探せばまだ基地時代のものがあります。そのなかで、一番大型で目立つものが掩体壕です。戦時中は滑走路周囲に数十基の掩体壕があったそうですが、現在では人々の目に触れられるものが3基あるのみです。
白糸台掩体壕【調布市】
私が初めて掩体壕の存在を知ったのは高校生のときで、当時は写真家丸田祥三氏の廃墟写真集「棄景」に衝撃を覚え、本格的に廃墟や廃線跡を撮り始めたときでした。調布に掩体壕があると耳にし、京王線飛田給駅と西武線白糸台駅付近にある住宅街へ向かい、国道20号線沿いの住宅地で2基の掩体壕に出会いました。住宅地一角の畑に、突如として存在しているカマボコ屋根のコンクリートの物体。そのときの感想は、「楕円形のコンクリートが畑に埋まっていて、よくわからん代物だなぁ……」。
単発エンジンの戦闘機を覆う掩体壕は、胴体部分が一番背高で、両翼端にかけてカマボコ状にすぼまっています。後ろ部分はどんどんと尻すぼみになるデザインで、お尻部分はエンジン排気のため通気穴がポッカリ開いています。とにかく楕円形をしているので、用途が解らなければ意味不明の物体です。それが畑の中にポツンとあるのだから、遺跡のような雰囲気さえあります。現役のときは半地下構造だったそうですが、現在では半分埋められているために高さが狭く、半世紀以上前に飛燕や五式戦が格納されていたとは、ちょっと想像しにくかったのです。
住宅地に2基存在した掩体壕は、その後1基が解体されてマンションになりました。空撮帰りに立ち寄ると、残された1基は畑の中ではなく史跡として整備され、丁寧に保存されていました。柵があるためコンクリートに触れられませんが、劣化防止のためにも柵は良いのではないかと思います。
大沢1号・大沢2号掩体壕【三鷹市】
次は調布飛行場の東側です。都立武蔵野の森公園・遊びの広場の中に、「大沢1号」「大沢2号」と呼称された掩体壕が保存されています。ここも柵がしてあって丁重に保存されており、大沢1号掩体壕はブロンズ製?の模型を設置して、掩体壕の役割を説明しています。さらに掩体壕に蓋をして微妙にリアルな飛燕を描いているので、遠目にみたら実機がいるのではと錯覚してしまいます。こういうギミックはせっかく保存したものをチープにさせてマイナス印象となってしまいがちですが、大沢1号掩体壕は実機と錯覚するほどの力作(?)なので、まぁ良しとしましょう。
実はこの2基の掩体壕は、私が空撮で待機する事務所のすぐ近くにあります。空撮があるときは、微妙にリアルな飛燕をチラ見しているのです。すっかり掩体壕が日常の光景となりました。
私が空撮を始めて数年間、この大沢1号2号掩体壕の存在は知りませんでした。こんなに至近にいるのに知らないなんて!と思いますが、一帯はずっと雑木林だったのです。新しく道路を造り、公園を造成することになって、雑木林を伐採して掩体壕が再び日の目を見ました。雑木林に囲まれていた時代に撮っておけばよかったと後悔していますが、うっすらとした記憶では誰かの私有地だったような気もして、立ち入りは出来なかったような。空撮を始めた時は毎日のように飛行場へ来ていたから、雑木林に眠る掩体壕のすぐ近くに居たんですよね……(後悔)。
紹介した3基の掩体壕は、史跡として大事に保存されています。厳密に言えば廃なるものではありませんが、都内に残存する戦時中の記憶として、また大型の「廃」構造物として、機会があったらぜひとも訪れて触れて欲しいなと思い紹介しました。調布駅から飛行場行きバスが出ており、散歩するにもちょうどいい距離ですし、自転車があれば効率的に巡れるでしょう。
取材・文・撮影=吉永陽一