駅の目の前に立つ大寺院
1974年に開業した護国寺駅。駅の出入り口は、護国寺の境内にあります。1番出口を出れば、そこはもう護国寺です。お寺にとってのガードマン的存在である仁王さまの守る仁王門が、護国寺の入り口。手前にはさらに交番も控えています。二重に守られる安心感。ここから護国寺の小さな旅が始まります。
今回ご案内いただいたのは、教化部長の真光尚道(しんこう・しょうどう)さん。徳川綱吉公ゆかりの寺院、護国寺の歴史をたっぷりとお聞きしました!
拝観時間は10〜16時までですが、早朝や夕方以降に仁王門の外を通ってお参りする人も見られます。
フリーダムな雰囲気ゆえ、境内を通って出勤するサラリーマンや、お散歩やランニングの途中にベンチで休憩する人、親子で公園のように気軽に訪れる人の姿も。境内と街がシームレスにつながり、街の風景がゆるやかにお寺の世界へスリップしていくつくりが護国寺の魅力です。
豊かな緑に覆われた参道。まだまだ本堂は見えません。
階段の手前にある蓮をかたどった手洗水盤は、江戸時代からのもの。『江戸名所図会』にも描かれており、当時は境内に湧き出す水を利用した自噴式となっていたそう。
階段に向かって右手の鳥居の奥には、富士塚「音羽富士」が。明治時代、境内に陸軍の墓地を作るため一度取り潰されてしまったそうですが、富士山信仰を持ち登山などを行った富士講の人々の要望を受け、現在の場所に移動して再興されたのだそうです。
登り切ると「ヤッホー」と叫びたくなる光景が。移動前の富士塚からは、実際に富士山がよく見えたのだとか。歩きやすい靴でぜひお参りしてみてください。
ではいよいよ、階段を上り「不老門」をくぐって、本堂にお参りしましょう!
五代将軍綱吉の母・桂昌院の願い
こちらが、現在の本堂となっている「観音堂」です。 護国寺建立を発願したのは、三代将軍・家光公の側室で、五代将軍・徳川綱吉公の母である桂昌院(けいしょういん)。その念持仏であった如意輪観音(にょいりんかんのん)像が御本尊で、拝観できない「絶対秘仏」となっています。
真光さん:桂昌院さんは、神仏を篤く敬う教育熱心な方で、綱吉公も非常に勉強家だったそうです。重責を担う息子を心配した桂昌院さんは、綱吉公が治める日本の安泰を願ってお寺を建てられないかと考えました。
そんな母の願いを聞いた綱吉公の調べで、幕府所属の薬草園だったこの地に、桂昌院が最も信頼していた僧侶・亮賢僧正(りょうけんそうじょう)を招き、護国寺が開かれます。
毎月18日に御開帳される六臂(ろっぴ)の大変美しい如意輪観音像は、頭部は平安時代のもので、体の部分を補い如意輪観音像としたと伝わります。後ろには、33体の仏さまがずらりと並びます。自然災害や、綱吉公の娘の死などを受けて造られた仏さまで、それぞれ首の部分に桂昌院の髪の毛が納められているのだとか。桂昌院の強い思いが込められていることがうかがえます。
真光さん:観音さまは、三十三の姿に変化(へんげ)して人々を導くと言われています。本来の姿ではなく、いろんな人、いろんなものに変化して導いているということです。あなたのすぐ近くにそういう観音さまがいるんですよ、そういった観音さまを受け取る力を日々培っていくといいよ、という教えなのだろうと思います。
その後、母・桂昌院の願いに加え綱吉公自身の思いも重なり、護国寺は幕府のオフィシャルな寺院としての性格を強めていきました。それまでの本堂に代わり、新たに観音堂を造営。創建当初のこの地域には田畑が広がっていたといいますが、境内とともに門前町が整備され、将軍が直々に参詣するにふさわしい大寺院となっていきます。
こちらは、護国寺の参道に連なって南に延びる音羽通りです。京都の朱雀大路を模して作られたといいます。門前町の地名には、桂昌院お付きの女官の名前がつけられたのだそう。現在も町名として使われている「音羽(おとわ)」のほか、地域の学校名などに残る「青柳(あおやぎ)」なども女官の名前が由来だといいます。
東西の美が交わる境内
江戸のストーリーが色濃く詰まった護国寺ですが、観音堂の手前には、西の都を思わせる風景も。こちらは、滋賀県大津市の石山寺(いしやまでら)のものを模して作られたという多宝塔です。後ろには同じく大津市の三井寺の塔頭(たっちゅう)、日光院から移築された国の重要文化財、月光殿(げっこうでん)が。
また、三井財閥や王子製紙などで活躍した実業家であり茶人の高橋箒庵(そうあん)が檀家総代を務めた縁で、自邸の茶室を移築した「箒庵」をはじめ、境内には9つもの茶席が並んでいます。
また、護国寺の境内には筑波からやってきた仏さまも安置されています。
こちらの仁王さまは、もともとは筑波山にあった知足院というお寺でお祀りされていたのだそう。知足院は奈良の長谷寺の一門である関東の有力寺院で、幕府の祈祷を行うため、神田に出張所のような位置付けのお寺も作られ、護持院と改称しました。
その神田のお寺は上野の寛永寺と並ぶ大寺院でしたが、のちに火災で焼けてしまい、同じ一門である護国寺の境内地で再興します。そうした縁から、明治時代の廃仏毀釈により護持院と筑波山がいずれも廃寺となった際、筑波山にあった仏像がいくつか護国寺に移されたのだそうです。
仁王像は「阿形(あぎょう)」「吽形(うんぎょう)」のうち、口を開けた「阿形」像から造るという決まりがあるそうなのですが、なんらかの手違いで口を閉じた「吽形」のほうから造ってしまったため、こちらは「吽形」一体のみでお祀りされたという話が伝わっているそうです。
近くに立つこちらの大仏さまも、同じく筑波からやってきたのだそう。そんな歴史をお聞きすると、悠々とした笑顔の陰に苦労が偲ばれます。
街の歴史が刻まれた一角
こうしたスケールの大きな話に加えて、この地に密着した小さな祈りの場所がモザイクのように重なり合う場所があります。それが「大師堂」の立つこの一角です。
こちらの地蔵堂で祀られているのは「一言地蔵尊」。
扉を開けて、一言だけ静かにお願いをします。昔の地図を見ると「地蔵」とだけ書かれているそうで、一言地蔵と呼ばれるようになった由緒は不明なのだそう。一人静かに祈りを捧げる場ゆえか、大きな護国寺の境内の中でも独特のひそやかな空気が流れているように思います。
こちらの「身代地蔵尊」は、かつて護国寺から1.5kmほど北西にあった「巣鴨プリズン(巣鴨拘置所)」に収容された人々を祀る仏さまなのだそう。巣鴨プリズンの教誨師として、BC級戦犯として収容された人々を支えた真言宗豊山派の僧侶、田嶋隆純(たじまりゅうじゅん)が中心となり、戦犯とされた人々の遺骨の一部を集めてお地蔵さまを建てたといいます。
こうしたお地蔵さまを囲むようにさまざまな仏さまが並び、草木とともにゆったりとたたずんでいます。一体一体の由緒は不明だといいますが、それぞれにいくつもの願いが重ねられてきたのでしょう。母が息子を思う気持ちに始まり、日本の歴史を見つめてきた護国寺。300年以上の歴史を経た令和の今、多くの思いが連なる場所になっていることを感じます。
取材・文・撮影=増山かおり






