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それまでのわたしは、夕方なんて知らなかった。会社員として大きなビルで忙しなく働く毎日。当然、窓の外に目をやることなんてない。夜は終電に向けて夜風に長い髪を預けて走る。蒸し暑い夏でも、頬が寒さで痛む冬でも、働いたあとに浴びる風は最高に気持ち良かった。そんな日々にお腹の底から満足していた。

そこへやって来たのが、あの「コロナ禍」。出社禁止が言い渡され、自宅でもその働き方を続けた。違ったのは夜風を切ることがなくなったことぐらい。ううん、気づけずにいたけれど実際のところはそうでなかった。食事も取らず働き続けた。眠るのは2時間ほど。止める人がいないものだから働き続けてしまった。やがて体重は10kg減り、ある日、天を仰いでわたしは倒れた。仕事ができなくなった。全てを失って、部屋という四角い箱の中に、ただの「わたし」がポツンと残った。

あの頃の夜風を。あの、顔にぶつかっては心地よく流れていく風を思い出すと、生ぬるい涙が寝転ぶわたしの耳横を伝う。体を壊してしまって、また働くことなどできるのだろうか。不安の中、ようやく少し落ち着いた頃には散歩だけがわたしの日課となった。するとすれ違うのだ。帰り行く子供たちと。赤ん坊を連れて夕飯の買い物から帰る人と。「これが夕方か……」と思った。夕暮れというものと久々に出会った。5時の時報が響き渡れば胸がぎゅうっと絞られるようで。かつての同僚が働いている時間にとぼとぼ歩いているわたし。夕方は怖いな、たまらなくそう思うようになっていた。

働いていない、ということがこんなにわたしを臆病にさせるのだ。それなら、これまで趣味のような心持ちで寄稿していた「エッセイ」を本業にしてみるのはどうかと考えた。大きく舵を切って新しく漕ぎ出す。

けれどもエッセイだけで食べていくのはやはりなかなか難しい。「お金のため」と、また週5日働かせてもらえる職場で仕事を手伝うようになった。慣れない仕事、あまり向いているとは思えぬ仕事……。それに逼迫されて、エッセイというものが手元からどんどん離れていきそうになっていた。なんだか大切な小舟の舫綱(もやいづな)を手から離してしまいそうになっていた。そんなとき、ハッとオフィスからマンゴー色の夕焼けを見たのだ。「これではだめだ」。5時の時報に耐えていたあの時と同じぐらい、ぎゅっと胸が締め付けられた。

そこから。仕事の合間を縫い、もっとエッセイと真剣に向き合うようになった。舫綱を引っ張る。離れないように力を入れてぎゅっとぎゅっと引っ張り続ける。すると幸いにも徐々にエッセイの仕事が増えてきた。やがて驚くほど舞い込んで手一杯になり、週5日の仕事を卒業することができたのだ。季節は夏にそっくりな秋に差し掛かった頃だった。

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そうしてひとりぽっちに戻った初日。蒸し暑い始まりの日。わたしは「日暮里」の街に向かっていた。ここには書店とパン屋さんが併設された『ひぐらしベーカリー』というお店があって、以前に2度訪れたことがあったけれども、忙しくてそれきりになっていた。初日はどうしてもここへ訪れたかった。なんだか心がいちばん落ち着く場所なのだ。

日暮里駅に降り立つと、北口から外に出て弾むように道を行く。軽い。足元がすごくすごく軽い。10年前まで荒川区と北区の狭間に住んでいたこともあるものだから、なんだか空気までもが懐かしく感じる。「そうだ、ここにお総菜屋さんがあったんだった」「ああ、“かねふじ”という名前だった」そんなことを思い出しながら6分ほど跳ねるように歩く。

お店に着き、書店で「こんにちはー」と挨拶をして1冊の本を買った。木製の椅子に腰かけてパンを頬張りながら数ページめくる。そしてわたしはそこで原稿を書くことにした。エッセイを書くことにした。中庭から風が通り抜ける。気持ちのいい風。背中から羽でも生えたような心地がした。もうすぐ新刊も出す。エッセイで生きていくのだ。わたしは今日から自由で。どんな時間もわたしのもので。そんなことを考えながら2つ目のパンを頬張ると背中に少しずつ西陽が差してきて、またあの夕方がそっと訪れようとしていた。けれどもあの頃とは違う。選ばされたのじゃない。わたしが選んだ夕方だ。自分で手に入れた夕方だった。

街が赤く染まっていた。見事に美しく“日”が“暮”れる街「日暮里」。誰もいないひぐらし小学校の校庭を横目に、来た道をまた戻る。シャッターを閉める金属工場を眺めながら、秋の西陽に照らされたアスファルトを歩いた。そのあたたかさにたまらず胸がいっぱいになる。そろそろ駅がきっと見えてくる。わたしはもう、なんにも怖くなかった。

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文=中前結花

エッセイスト。兵庫県生まれ。現在は東京で活動中。著書に『好きよ、トウモロコシ。』『ミシンは触らないの』(共にhayaoki books)。最新刊『ドロップぽろぽろ』(講談社)が好評発売中。

まちまち通信

ひらいめぐみさん・中前結花さんが同じ街をテーマに、毎月交互につづっていくリレーエッセイ。

『散歩の達人』2026年4月号より

服好きの友人と、リバーシブルの服の話で盛り上がったことがある。彼は突然、なにかを思い出したかのように「リバーシブルの服って、リバーシブルで着なくないですか?」と尋ねた。そして、「実際、両方を表として着てる人ってあんまりいないんじゃないですかね」と続けて言った。たしかにそうだ。両方着られることがその服の魅力でありながら、リバーシブルの服を両面とも同じ頻度で着る経験はほとんどない。「わかる。なんだかんだ、表側しか着ないよね」わたしは深く同意しながら、頭の中では昔住んでいた街のことを思い浮かべていた。