あの頃の贅沢な菓子パン

ベーカリーが数多くあり激戦区となっている西荻窪。その中でも『ANSEN』は、個性的なラインアップで人気となっている。

売りはなんといっても菓子パン類。シンプルなものから手の込んだものまでさまざまなパンがそろっていて、どれも上等の出来だ。定番のクリームパンに使われている自家製カスタードクリームは、バニラと卵の風味がしっかり出ていて、芳醇なおいしさがある。はっきりと、普通のクリームパンとは違う。

クリームパン200円。見た目はオーソドックスだが……
クリームパン200円。見た目はオーソドックスだが……
濃厚かつバランスの良いカスタードクリームが最高。
濃厚かつバランスの良いカスタードクリームが最高。

開店当時からのメニューであるメレンゲは、モカのシフォンケーキをデニッシュ生地で巻き、ホワイトチョコがかけられたもの。バターの香りにチョコの甘さとちょっぴりのほろ苦さ、ピーナツとアーモンドパウダーの香ばしさが重なり、贅沢な気持ちになってくる。

メレンゲ280円。この値段で十分な贅沢感。
メレンゲ280円。この値段で十分な贅沢感。

しかし、『ANSEN』のパンは、ただおいしいだけではない。昭和世代の筆者のノスタルジーを刺激しまくるのだ。たとえるなら、子供の頃、都会に住んでいるおしゃれな親戚のおばさんが家に遊びに来るとき、手土産に買ってきてくれた菓子パン。あの頃にワクワクしながら食べた、ちょっと贅沢な菓子パンの味がするのである。

「あの頃の菓子パン」……ずいぶんと身勝手な物言いをしてしまったけれど、店の成り立ちを聞いたところ、それも合点がいった。『ANSEN』はまさしく、“あの頃の味”を大事に引き継いできたベーカリーだったからである。

懐かしいおいしさの秘密

『ANSEN』が西荻窪に開店したのは、1972年のこと。当時の場所は、現在はマクドナルドがある高架下という一等地だ。現『ANSEN』の初代店主・渡邉孝夫さんは、そのときにシェフとして雇われで働き始めた。なぜそんな好立地で商売を始められたかというと、経営母体が「第一不動産」という、不動産以外にも手広く事業を展開しているイケイケの会社だったからだ。資金は潤沢だったのである。

かつて『ANSEN』があった高架下。
かつて『ANSEN』があった高架下。

第一期の『ANSEN』は豊富な資金で一流のレストランやホテルからパン職人、ケーキ職人を引き抜き、商売を始めた。メイン商品はデニッシュ類。デニッシュは青山にあった「青山アンデルセン」(2017年に閉店)が1970年に初めて日本で売り始め、72年時点でブームになっていた。いわば当時の最新トレンド商品だ。そのデニッシュを西荻窪の駅前で売り出したのだから人気となるのは当然で、『ANSEN』は開店早々に行列店となった。

この、一流の職人を使っていたというのがキーポイントだ。現『ANSEN』のパンに懐かしい贅沢さを感じるのは、開店当時に一流の職人たちが生み出したレシピだったから。『ANSEN』の個性の秘密は、開店時スタッフの布陣にあったのだ。

現店主の渡邉歩さんと母の佐智子さん。
現店主の渡邉歩さんと母の佐智子さん。

今でも開店時から変わらず作り続けている商品は多い。ストロイゼルクーヘンは、カスタードクリーム入りのパンに、卵とバターで作ったそぼろをのせて焼いたもので、さっくり甘いそぼろとまったり濃厚なクリームの組み合わせは、なんとも豊かな気持ちになる。大げさではないけれど、ちょっとした特別感。これが『ANSEN』の魅力なのだ。

ストロイゼルクーヘン330円。甘いつぶつぶが歯に心地良い。
ストロイゼルクーヘン330円。甘いつぶつぶが歯に心地良い。

さて、順調だったにもかかわらず、10年ぐらいで第一期の『ANSEN』は突然、店を閉じてしまう。開店時からシェフとして働いていた孝夫さんは、そのタイミングで当時の店長やほかの職人と一緒に、神奈川県の藤沢で第二期『ANSEN』を始めた。ちなみにオーブンなどもそのときに第一期の『ANSEN』から譲り受け、今の店でも現役で活躍している。

開店時から使われているドイツ製のガスオーブン。電気とは焼き上がりが違う。
開店時から使われているドイツ製のガスオーブン。電気とは焼き上がりが違う。

ファンの要望に応え、再び西荻窪へ

藤沢で商売を始めた『ANSEN』だったが、西荻窪時代のファンはその味を忘れられなかったようだ。藤沢の店にたびたびの注文があったため、西荻窪に販売所を構え、トラックで運んできたパンを売るようになったという。第一期『ANSEN』のパンのおいしさは、それぐらいインパクトがあったのだろう。

さらにその後、藤沢の店を閉め、再び西荻窪へ。2001年、第三期の『ANSEN』を現在の場所でオープンした。そして孝夫さんが体調を崩したタイミングで息子で現店主の渡邉歩さんが店に入り、パン作りを父から習うと経営を引き継ぎ、現在に至っている。

大型食パン400円。ガス窯でしっかり焼かれた耳が特徴的でファンは多い。
大型食パン400円。ガス窯でしっかり焼かれた耳が特徴的でファンは多い。

西荻窪に戻ってきた当初はそのことが周知されておらず、いまひとつな客入りだったが、タウン誌に紹介されるとすぐにかつての常連が戻ってきた。今でも昔からの常連は買いに来てくれるようで、中には自転車に乗って食パンを買いに来る100歳の常連さんもいるとか。

バゲットもパリッと焼かれています。
バゲットもパリッと焼かれています。

そこまで支持されるのは、なにより開店当初からレシピを変えていないということが大きいだろう。歩さんは父から習ったレシピを忠実に守り続けている。カスタードクリームやジャムは、昔からずっと自家製。さまざまな業務用食材が進歩した今ではえらい手間のように思えるが、その手間があってこそのおいしさ。

変えることは難しいが、変えずに続けることもまた難しい。その努力を続けてきたからこそ、『ANSEN』は今も常連に愛されているのだ。

場所を変えながらも、ずっとファンに愛され続けてきた『ANSEN』。今は老舗店の継承が難しくなっているが、実は歩さんの息子さんがパン作りに興味を持っているとのこと。できることなら、この贅沢な菓子パンの味を、3代目に受け継いでほしいものだ。

取材・撮影・文=本橋隆司