日銀の目の前!お金のミュージアム
日銀こと日本銀行の本店本館の向かいに、『貨幣博物館』が立っています。
入館は無料なのですが、ちょっとドキドキ。
展示室に続く階段を上るとまず迎えてくれるのは、1億円の札束の重さを体験できるコーナーです。
館内の資料の多くは、古貨幣収集・研究家の田中啓文(たなかけいぶん)のコレクション。戦争の被害を避けるため、コレクションは昭和19年(1944)に日本銀行へ寄贈され、その後GHQの接収からも逃れて今に至るのだそうです。そんな世界有数の日本の貨幣コレクション、つまりお金の実物を年代順に紹介しているのが、こちらのミュージアムです。
教科書でおなじみの「和同開珎(わどうかいちん)」が並ぶ「古代」のコーナーに始まり……、
最初の日本銀行券「大黒札」など、「円」が誕生する明治時代の資料も充実しています。
現代に至るまでの歴代の日本銀行券もズラリと展示されており、普段博物館に足を運ばない人も興奮してしまう資料の連続です。「このお札、おじいちゃんに見せてもらったことがある」「菅原道真もお札になっていたんだ!」などと世代を超えて盛り上がれる展示です。
お金の歴史を実物でたどる
今回注目したのは、江戸時代の貨幣に迫る「近世」のコーナーです。日本では、約650年もの長期にわたり、国家が貨幣を作っていない時期があったのだとか。その沈黙を破り、貨幣でも“天下統一”したのが徳川家康なのだそうです。
『貨幣博物館』学芸員の関口さんに、古代からの日本の貨幣の歴史についてお聞きしました。
関口さん:古代の日本では全部で13種類の金属のお金が発行されていたのですが、10世紀半ばを最後に金属のお金の発行が途絶えます。そこから約650年間、国が発行するお金は空白の時代になりました。
銅の不足で粗悪な銭貨が増えたことなどから、天徳2年(958)に作られた乾元大宝(けんげんたいほう)を最後にしばらく貨幣の発行が途絶えたのだそうです。
米と布をお金として使う時代が12世紀半ばぐらいまで続いたのち、中国から大量の渡来銭が入ってきます。当初、幕府や朝廷は渡来銭の使用を禁止していたものの、人々が勝手にお金として使うようになり、追認せざるを得なかったのだそう。お金と民衆のパワーを感じる力強いエピソードです!
その後、戦国大名がお金を発行することはあったものの、基本的に武家同士の贈答品など領内で使われるものだったそう。秀吉も、大判などを作ったそうですが、全国的な流通には至らなかったといいます。
そしていよいよ徳川家康の登場によって、貨幣も“天下統一”に至ります。といっても、家康がまったく新しい制度を作ったわけではなく、それまでの貨幣の仕組みなどを取り入れながら新しい貨幣を作り、ゆるやかに貨幣制度を整えていったのだそうです。
例えば、武田信玄の領地で発行された「甲州金」という貨幣の四進法の仕組みを取り入れ、金の小判1枚=1両=4分=16朱と定めたこともその一つ。
また、秀吉が掌握していた鉱山を直轄化したり、西日本で広まっていた、重さを測って使う「秤量貨幣(しょうりょうかへい)」の銀貨を取り入れるといったことも行われました。
こうして、金貨・銀貨・銭貨という3種類の貨幣が国のお金として発行され、流通することになりました。「三貨制度」と呼ばれるこのシステムは非常に複雑で、金1両=銀60匁=銭4000文(18世紀の例)といった具合に幕府が定めた公定相場はあったものの、実際にはさまざまな要因により日々変動していたのだそう。
関口さん:これは金・銀・銭の間に為替相場が立つようなもので、ドル・円・ユーロが1つの国で流通しているようなものだとも言われることがあります。
江戸時代には両替商が大きな力を持ったと言われますが、この話を聞けば納得です!
ちなみに、幕府は紙幣を作っていませんでしたが、各藩が発行する「藩札(はんさつ)」や寺社などが発行するお札はたくさん作られていたのだそう。西日本に特に多く、幕末までに約8割の藩が藩札を発行したのだとか。
大黒天などの神様が描かれたりと、さまざまなデザインも見どころです。
江戸時代にも偽造対策が施されており、透かしを入れたり、彫るのが難しい小さな隠し文字を入れたりしていたのだそうです。
江戸時代の金貨・大判のアレコレ
江戸時代のお金というと、秘密裏にやりとりされる金の小判や、大判・小判がザクザク掘り出される昔話のような光景が思い浮かびます。お金持ちの蔵にしまわれているようなイメージがありますが、こうした金貨は庶民も手にすることはあったのでしょうか?
関口さん:大判は主に武家や豪商などの贈答用や商取引などで使われたもので、普通の人はなかなか見る機会がなく、一生見ることのなかった人も多かったと思います。これだけの大きさなので、財布に入れて日々持ち歩くような貨幣でもありませんでした。
庶民の暮らしとはほぼ無縁なお金だったのですね。江戸時代の大判は現代でいう一万円札のように、庶民にも比較的身近な存在なのかと思っていましたが、それよりも遥かに雲の上にある高級宝飾品のような存在だったのかもしれません。
そうなると、もし鼠小僧が金貨をくれたとしても、庶民には使うのが難しかったかもしれませんね。「なぜ庶民がこんなものを?」と怪しまれてしょっ引かれそうです。
大判の重さを体験できるコーナーもあります。16世紀後半に作られ、江戸時代初期にも流通していた天正長大判のレプリカで、1枚約165g。現代のアイテムでいうと、軽めのスマートフォンくらいです。
江戸時代の庶民の金銭事情
それでは、大判などとあまり縁のなかった庶民は、いったいどんな風にお金と付き合っていたのでしょうか?
江戸時代の後半には、農村にも貨幣を使う暮らしが広がっていたといいます。商品作物を売って得たお金で、農具や日用品などを購入していたのだそうです。19世紀初めの記録では、100文で買えたものとして、豆腐5丁、柿25個、筆5本、茶碗4つなどが挙げられていました。当時の100文は、現代でいうと庶民の財布に入っているような金額だったといえそうですね。
野菜を仕入れて売って暮らしていた町人「棒手振(ぼてふり)」の生活を紹介する資料も。600〜700文のお金を持って市場へ行き、仕事や買い物を終えると残額は100〜200文になったのだとか。これを酒代や、雨で仕事ができない日のために取っておいたと考えられているそうです。
教育を受けられるような裕福な家庭の金銭事情を伝える資料もありました。人が60歳まで生きると一生にどのくらいお金を使うのかを表した、「人間一生入用勘定」という当時の教育用の資料です。
総額579両のうち、酒代が22%もの割合を占めています!
取材時には、当時の財布も展示されていました。中には木製のものも。お金の形状がさまざまだったこともあってか、財布の形状や素材は現代より遥かに多様です。
中には刀の鐔(つば)型のものもありました。浮世絵や時代劇を観るとき、財布を出し入れするシーンに注目すると楽しそうです!
こちらは、旅人たちの持ち歩いたお金についての資料です。この写真に写っている銭貨のように、ひもでくくった状態で銭貨を持ち運んでいたのだそう。
その様子は浮世絵にもたびたび描かれています。旅に出る時はかさばらない金貨や銀貨を持ち、旅籠(はたご)屋や都市の両替屋で少しずつ銭貨に両替しながら旅を続けたのだとか。『東海道中膝栗毛』には、砂糖餅やうずら焼きという食べ物がそれぞれ3文で売られているシーンが出てくるのだそうです。
こうして江戸時代やそれ以前の時代の貨幣事情を見ていくと、お金=国家のもの、という確固たるイメージが覆されます。現代と違って、さまざまな発行元が作ったお金が国内に乱立していたことがとても不思議に思えました。
江戸時代の人々のお金への信頼度は、現代人に比べてかなりゆらぎのあるものだったのではないでしょうか。「宵越しの金は持たない」という言葉も、『貨幣博物館』を訪れてから目にすると、違った響きにも感じます。
江戸時代を描いた作品に触れるとき、お金の概念が違うことも踏まえて見ると、江戸時代の文化をより深い部分から楽しむことができそうです。未来のお金はどんなものになるのだろう? そもそもお金は存在し続けるのだろうか? と興味が広がっていくミュージアムでした。
取材・文・撮影=増山かおり





