しかし迷子は、大人にとってはとても難しいことである。近所の道は知り尽くしているし、なにより現代にはスマホがある。地図アプリを開けば一瞬で現在地を教えてくるGPS。散歩途中に知らない袋小路に迷い込むことは、実に困難だ。

では、どうすればいいのか?

なにはともあれ、スマホを封印する必要がある。そうだ、スマホを家に置いて、散歩に出かければいいのではないか。いや、しかし。大人になったいま、方向感覚はかなり成長してしまっている。スマホなしで見知らぬ路地に入り込んだとしても、すぐに見慣れた建物を発見してしまうことだろう。どこを通ってここまで歩いてきたのか、その過去ログをごっそり抹消しつつの散歩をしなければ、真の意味での迷子は果たせない。

ならば、逆にスマホを持ち、電話をしながら歩く、というのはどうだろうか。スマホを耳にべったりと押し当てて、地図アプリを開けない状態にする。これもまた、封印である。そして友人との長電話を楽しみながら散歩をする。目の前の風景よりも、電話先の相手とのやり取りに意識を傾ける。会話に夢中になれば、道の選択が雑になる。

そして、いつの間にか知らない街角に出ている……!

そうだ、長電話しながらの散歩は、自分で自分にハッキングして、頭の地図アプリを強制的にアンインストールしてしまうという、禁断の手口である。

私はさっそく、迷子になるため、その不正アクセスを試みることにした。

長電話で方角感覚をバグらせてみる

その日の午後、散歩をスタートさせた瞬間に、私は高校時代からの友人に電話をかけた。彼女は私にとって気楽でいられる存在で、他愛のない話をするにはうってつけな相手でもある。

スマホの向こうから「あー、久しぶりじゃん。いま歩いてんの?」という声が聞こえる。そして、大変にどうでもいい会話が爆竹のように展開を始める。「えっ、あの人っていま、イタリアに住んでるの? 嘘でしょ?」「モスバーガーに行くたび、結局は海老カツバーガーを注文している自分を発見するよね」「こないだ、ベランダに変な虫がいたよ。なんか、蚊を大きくした感じの」「あれ?今年って令和何年だっけ?」「請求書に印鑑押す風習、マジで消滅すればいい」

私はスマホを耳へと貼りつけて、近所の道を散歩する。意識はどんどん会話へと吸い込まれ、やがてそれは散歩ではなく、彷徨(さまよ)いへと変容していく。そして長電話を遠心力にして、ついに近所の景色の外へと放り出される。

知らない定食屋。知らない公園。知らないガスタンク。

思わず「うわ、どこだ、ここ」と声に出してしまう。すると電話の向こうの友人は「え? なに?」と心配の声をかけてくる。「いや、ちょっと迷子になったっぽい」と説明しつつ、歩みは止めない。もっともっと、迷子道の奥へと踏み込んでいく。方向感覚は、完全にアンインストールされていた。

結局、二時間半ほど電話しながら歩いた。新幹線だったら大阪まで行けてしまう時間であるが、私は大阪よりも遠い場所に徒歩で辿(たど)り着いてしまったようなエキゾチックな心地を、迷子の果てに味わっていた。

スマホの充電がなくなり、友人との会話は強制終了となる。辺りを見渡せば、まったくもって、見知らぬ住宅街。どこにいるのだ、自分は。GPSに頼らずに、無事に帰ることはできるのか。とりあえず交番を探して……と思うが、そもそも交番がどこにあるのか分からない。道の途中でお巡りさんに偶然的に出会うことを期待する、そんな地方公務員ガチャを回すしかない。ああ、自分の運命や、いかに。ぞくっとした興奮が背筋に走る。その「迷子」ならではの特権的な感覚を、私はどこまでも歩いて味わい尽くした。

聞き覚えのないチャイムが、夕闇に鳴り響く。

迷子になっている最中、「知らない銅像」に出くわすとなぜか不安な気持ちになる。
迷子になっている最中、「知らない銅像」に出くわすとなぜか不安な気持ちになる。

文・写真=ワクサカソウヘイ

正直に告白する。私は、散歩に飽きている。街を歩くのは嫌いじゃない。むしろ、趣味の母体ですらある。散歩のない人生なんて考えられない。そう信じていたのに、同じ道を、同じ足で、同じように歩く、ということに、ある時からじんわりと退屈さを覚え始めてしまったのだ。
雨に濡れてはいけないなんて、いったい誰が決めたというのか。たしかに、雨に濡れると服が重たくなるし、風邪をひくし、格好も良くはない。しかし、雨に濡れることをそこまで忌(い)み嫌うというのも、よく考えたら妙な話だ。我々は、傘をさして必死に空からの雨を避けるのに、帰宅したらすみやかにシャワーを浴びることを楽しむという、けっこうな矛盾を抱えた生き物である。濡れたくないのか、それとも濡れたいのか。私は自身に問いかける。そうだ、時には思いきり、雨に濡れながらの散歩をしてみてもいいのではないか。