そのタイミングは不意に訪れた。昼下がり、自宅での作業中。窓の外を見ると、空がバグったのか、という勢いで雨が突然に降り始めた。ゲリラ豪雨である。私はすぐさま、家の外へとゲリラ散歩に飛び出した。傘を、持たずに。

全身をずぶ濡れにしながら、容赦なく降る雨の中を、あてもなく歩いてみる。傘を忘れて雨に降られた外出の折では、まさに「濡れネズミ」といったみじめな気分になるものだが、いまの私はあえて傘をささないと能動的に決めてびしょびしょの散歩を楽しんでいるのだから、「全天候対応型ゴリラ」といった最強の気分である。心の中でドラミングをしながら、雨なんてまったく気になりません、といった風情で堂々と路の真ん中を闊歩(かっぽ)する。向こうから傘をさしたスーツ姿の人が現れ、こちらの姿を認めてギョッとした表情を浮かべるが、気にする必要はない。あなたがいま目撃したのは、傘という文明のプロテクターを解除した、新しいフェーズの人間なのである。

むきだしの雨天という異界

傘がない状態で歩く雨天の景色というのは、まったくもって非日常の感覚にあふれていた。

まず、雨粒の音が直接的である。ダイレクトに脳天へと打ちつけてくる、無数のリズム打撃。それはドルビーサラウンドのようにして、頭蓋骨から鼓膜へと響いてくる。野生のストリーミング配信ミュージックである。

そして、匂い。雨によって濡れたアスファルトや湿った土の香りが、鮮やかさを伴って起き上がってくる。それは記憶のスイッチで、子供の頃の夏休みの思い出が一気に蘇(よみがえ)ったりする。そうだ、この匂いは、あの時のキャンプの朝に嗅(か)いだものと同じだ。

なによりも面白いのは、傘という結界がないことで、自分が世界とむきだしでかかわっているような感覚に襲われる、という点である。胸元にも、背筋にも、靴の中にも、雨水はざぶざぶと侵入してくる。着衣をしているのに、全裸で海を泳いでいるような解放感。雨の雫が首筋から指先へと滴り、なんだか官能的ですらある。

そうやって傘をささないことでの独特な情緒を味わっていると、そうか、雨天とは我々にとって最も身近な異界であったのか、ということに気がつく。見えるものすべてが雨粒によって輪郭を奪われており、知っているはずの近所の景色は濡れそぼったパラレルワールドへと姿を変えている。日常の裏ステージに迷い込んでしまったような、静かな高揚感。

私は、靴を脱いでいた。濡れた靴下は気持ち悪く、いっそ裸足で歩いてしまえと思ったのだ。アスファルトのぬめっとした感覚が足の裏へと伝わってくる。ますます、世界とむきだしで接続されたような感覚が際立ち、崇高なモードが立ち昇ってくる。そうだ、いまの私の姿は、まるで求道者だ。傘を捨て、靴を捨て、雨の滝に打たれながら、凡人には理解もできない散歩を敢行している。このままいけば、第三の目とか開いちゃうんじゃないのか。通行人がこちらに向かって手を合わせてきたりするんじゃないのか。ゆくゆくは、近所の郷土資料館で私の即身仏が展示される可能性だってある。そんなことになったら、どうしよう!

そうやって頭の中でセルフ神格化を展開させて、雨に濡れながら大層な気分に浸っていたが、ここで背中がぶるっと震える。風邪の予感だ。早歩きで自宅へと帰り、すぐさま温かいシャワーを浴びて、私はあっさり俗世へと舞い戻った。

自分の情緒といたずらに遊ぶ散歩ができて、ドライヤーで髪を乾かす鏡の中の自分は、ずいぶんと満足そうな表情を浮かべていた。

「あえて傘をささずに散歩」を楽しむ最大のコツは、途中で我に返らないことである。
「あえて傘をささずに散歩」を楽しむ最大のコツは、途中で我に返らないことである。

文・写真=ワクサカソウヘイ