それにしてもみごとに真っ白になったものだ。まさかこのホースの水で洗い流されてしまったわけではあるまい。長年風雨や直射日光にさらされて塗料の色が褪せてしまったのだろう。文字を失った看板は当初の目的である警告の役から解かれ、ただ無地の板として残存している。
それがこうして何らかの物の傍にあるとまるで美術館の作品に添えられたタイトル・プレートのようで、白い壁に掛けられた青いホースは何だかオブジェ作品に見えてくる。さながら「無題、作者不詳」といったところか。
身のまわりの日用品をこうして作品に見立てるのはなんとも詩的でユーモラスな遊びといえる。
アートの世界では男性用小便器に《泉》というタイトルをつけた作品で知られるマルセル・デュシャンがじつにこの遊びの達人で、こうして見立てた品物──美術用語では「ファウンド・オブジェ(見出された物体)」という──を「レディメイド」(既製品の意)と称して展示することで、美術を手で作り出すものから頭の中で組み立てるゲームに変えたというわけだ。
多くの評論家や美術史家がそのゲームに参戦するようにさまざまな解釈で謎解きを試みてきた。しかし、世の中の常識を破壊するのがダダイストの作風だとしたら、デュシャンの《泉》はお笑いでいう「ものボケ」に限りなく近いナンセンスの塊。何しろあれはどこにでもあるただの便器にほかならない。
デュシャンの作品を一種のものボケであるとすれば、既製品のオブジェはあくまでネタであって、ヒネリの効いたおもしろさはむしろタイトルの方にある。《泉》の原題Fontaineは自然に水の湧き出す水源ではなく人工的な「噴水」を意味するので厳密には誤訳というか一種の意訳なのだが、本来はそのタイトルから、噴き出すはずのない水──「無」の水とでもいおうか──がピューッと放物線を描く様子を脳内にイメージさせる、そういう仕掛けの作品なのだ。「想像の水を噴き出させなさい」といえばオノ・ヨーコ風にもなる。
たとえば、ここにハンドルが外されて水の使えない状態にされた蛇口の傍に看板の剥がれた跡がある。無言というよりは言葉を奪われたその姿はどこか悲痛で、水の出ないことと無関係でありながら何かそのことでコミュニケーションの回路の外に置かれているように私には見えた。
この蛇口から水さえ湧き出せばきっと魔法は解け、失われた言葉も取り戻されるのではないか──。ここで思い浮かべたのは『奇跡の人』のあのシーンだ。ヘレン・ケラーにこの世界が言葉で満ちていることを知らせるために、いま私たちは、想像の水栓をひねれば想像の水を湧き出させることができるのだ。
写真・文=楠見清