フリーライターなので、取材がある日はともかく、執筆する日は一日中パソコンに向かっている。一日の歩数はたぶん、同世代の平均と比べて少ない。そんな私だが、過去には長い長い距離を徒歩で横断したことがある。「サンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼(サンチャゴ巡礼)」と呼ばれる、キリスト教の巡礼をしたのだ。
出不精で家にいることが多い私だが、地球の裏側に行ったことがある。今から10年ほど前、夫(当時)と3ヵ月かけて南米を旅したのだ。その前にはメキシコ、その後にはフランスとスペインへ行ったので、トータル半年間の長旅だ。
出不精であまり旅行に行かない私だが、29歳から30歳にかけての半年間、当時の夫と長旅をしたことがある。以前パタゴニアについて書いたのも、この旅の中でのできごとだ。いつかこの連載で旅について書きたいと思っていたのだが、いかんせん半年間という長い期間でのできごとなので、思い出がありすぎる。印象的なエピソードだけ拾って書いたとしても、全10話くらいの大作になってしまうだろう。そこで今回は、「旅の間に読んだ本」に焦点を当てて、旅を断片的に振り返ってみたいと思う。いつもとは体裁が少し違う、番外編のような回だ。

帰国してすぐは、夫の実家に住民票を置かせてもらい、それまで働いていた山小屋で働いた。ワンシーズン働いて下山すると、私たちは住所不定の無職になった。それをわかった上で旅に出たのだが、実際にその状況になってみるとやはり心細かった。

下山後、夫は運転免許を取得するため、地方の合宿に行った。私は、山の麓の温泉旅館で住み込みの短期バイトをすることになった。バイト中、私は絶えずこの先のことを考えていた。

まずは、部屋を借りなければいけない。私たちはどこに住むかを決めかねていた。候補は町田と松本。町田は夫が中学生まで住んでいた街で、松本は山小屋への行き帰りに必ず通過している、なじみのある街だ。私は専門学校が御茶ノ水だったから東京に友達がいるし、松本や安曇野にも山小屋の友達がいる。車の運転ができない(免許は持っている)ことがネックだが、安曇野はともかく、松本なら運転をしなくても暮らせそうだ。

しかし、私たちは山小屋の契約が終了していて無職の身。部屋を借りることができるのだろうか。家(住所)がなければ仕事を探すこともできない。部屋を借りられなかったらどうしよう。

仕事については、旅に出る前や旅の間は「お互いに山小屋を辞めて就職しよう」と話していた。山小屋は季節労働で、山で働くシーズンと街で働くシーズンがある。結婚している人もいるし、結婚生活が不可能な仕事ではないのだが、私は山と街を行ったり来たりする生活に疲れていた。どこかに腰を落ち着けて、長く続けられる仕事をしたい。私は山小屋以外の仕事を続けられたことがないので、街で働くのは不安だったが、その不安に打ち勝つしかない。いつかは書くことを仕事にしたいが、まずは生活を立て直すことが大事だから、働きながら文章を書いていこうと思った。

しかし、帰国後に山小屋で働いているうち、夫が「僕、やっぱり山小屋を続けたいな。サキちゃんは辞めたかったら辞めてもいいよ」と言い出した。話が違う。夫が山で、私が街で働くとなると、一年のうち半分以上は別々に暮らすことになる。せっかく長い遠距離恋愛が終わって一緒に暮らせるようになったのに、一緒に暮らすことを楽しみにしていたのに、なぜこうも簡単に前言を撤回してしまうのか。

しかも、当時の私は将来的に子供を持つことを考えていた。山小屋で働いている人の中には、子供を養っている人もいる。しかしそれは、何十年も務めてきた支配人などの場合だ。夫の山小屋の給料では、子供を育てられるとは思えなかった。

「街で働くって言ってたじゃん。あなたが山小屋で私が下界じゃ、一人暮らしになっちゃうし、子供を育てるのも大変だよ」

私がそう言うと、夫は

「サキちゃんは苦労するのが嫌なの?」

と言った。

そう言われて、私は黙ってしまった。苦労はもちろん嫌だし、できることなら回避したい。しかし両親を見ていると、家族のために数々の苦労を引き受けてきている。「苦労するのが嫌だ」と言うのは甘えに感じて、言えなかった。

ただ、このとき夫が山小屋勤務の継続を願ったのは、まさに苦労をしたくなかったからだと思う。口では「あらためて山小屋の仕事の面白さを知ったから続けたい」と言っていたが、「街で就活して働く自信がない」が本音だったのではないか。

夫は個人の自由を尊重する人で、それは私にとってありがたいことなのだが、結婚したからにはもう少し協調性を持ってほしかった。私は家族行事が多いにぎやかな家庭で育ったので、自分も結婚したらそういう家庭を築けるものとばかり思っていた。夫ともそういう話をしていて、彼も「いいね」と言ってくれていたのに、彼はちっとも家庭に興味がなかった。

これからのことが不安で不安でたまらない。温泉旅館のバイトの休憩中、「夫婦 フリーター」などで検索しては、質問サイトに投稿されたフリーター夫婦の不安とそれに対する多数の説教コメントを読み、落ち込んだ。

仕事が終わった夜中、マッサージチェアが並ぶフロアは消灯されていて真っ暗だ。私はマッサージチェアに腰かけて、小声でぼそぼそと夫と電話をした。夫は相変わらず明るく、「なんとかなるさ」とポジティブなことばかり言いつつ、のらりくらりと就活から逃れようとする。本当にこの人と生きていけるんだろうか。母に電話で泣きながら相談すると、父に「自分の旦那を信用せえよ」と言われた。

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そんなわけで温泉旅館バイトの間中悩んでいたが、もうすぐバイト期間が終了することをSNSに書いたら、松本や安曇野に住む友人たちから遊びのお誘いLINEがいくつか届いた。私はすべての誘いに乗り、バイトが終了して自由な身になったあとは、連絡をくれた友人たちの家を泊まり歩いた。山小屋で知り合った友人たちだが、今は山小屋を辞めて街で働いている人が多い。

数年前に山小屋で一緒に働いていたマイケル(仮名。日本人だが外国人のようなあだ名で呼ばれていた)は、今はバスの運転手をしている。系列の別の山小屋で働いていた遥ちゃん(仮名)と付き合っていて、3人で飲まないかと誘われた。

マイケルの仕事が終わるまで、先に遥ちゃんのアパートで2人で飲むことになった。遥ちゃんと会うのは3回目くらいで、そこまでお互いのことを深くは知らない。保育園で調理師をしている彼女は、お酒を飲みながら手際よく料理を作ってくれて、そのどれもがおいしかった。

遥ちゃんはとても話しやすくて、マイケルが到着する頃にはすっかり意気投合していた。彼女は山小屋の仕事がきっかけで安曇野に住みたいと思うようになり、部屋を借りたものの、今の仕事に出会うまではなかなか職場に恵まれなかったそうだ。ブラック企業に勤めて心を壊しかけたり、経営者がレイシストであることに気付いて逃げ出したりしたことがあるという。

「時間はかかったけど、やっと自分らしくいられる暮らしを手に入れることができたよ。サキちゃんも、時間はかかるかもしれないけど、きっと心地いい仕事や家が見つかるよ!」

そう励まされて、素直に前向きな気持ちになれた。

江原さん(仮名)は8歳年上の優しいお姉さんで、安曇野のモスバーガーでおしゃべりをした。最初はその年の山小屋のできごとなどを話してゲラゲラ笑っていたのだが、そのうちにこれからの話になった。

「夫が先のことを真剣に考えてくれないんです。住む場所も仕事も行き当たりばったりで決めようとしていて、ぜんぜん地に足つけて生活する気がないんです」

私が言うと、江原さんは気まずそうに苦笑いをする。

「いやぁ、私も行き当たりばったりでこっちに移住してきちゃったから耳が痛いなぁ。でも、私もなんとかなってるし、行き当たりばったりでもいいんじゃないかな? そうやって一つひとつ選択しているうちに、だんだんと納得のいく暮らしぶりができるようになると思うよ」

「そういうものですか?」

大人は進路を慎重に決めているものだと思っていたので、江原さんの「私も行き当たりばったりだった」という言葉に、少し胸が軽くなった。

前の支配人夫妻の家に泊めてもらったときは、夫と義弟(義弟も山小屋で働いていた)と私の3人が招かれて、みんなで鍋を囲んだ。お酒を飲んでわいわいとおしゃべりをして、とても楽しかった。

話題がこの先のことに向いたので、何も決まっていなくて不安だとこぼすと、義弟が言った。

「仕事も住むところも、一発でバチっと決まらなくても、まずは『とりあえず』で決めて、合わなければ変えていけばいいんじゃない? そうやって少しずつ、自分たちに合った生活を模索していくんだと思うよ」

たしかに、私は住むところも仕事も「一発でバチっと」決めたがっていたかもしれない。慎重に、失敗のないように選ばなければいけないと思っていた。

けれど、遥ちゃんも江原さんも義弟も、失敗をするなとは言わない。3人とも、言葉は違うけれど、「失敗しながら少しずつ調整していって、自分たちにとって最適な暮らしを見つけなよ」という意味のメッセージをくれた。

将来を真剣に考えることも、慎重に選ぶことも大事だ。けれど私は、「失敗してはいけない」と思うあまり、肩に力が入りすぎていたかもしれない。だから肩の力が抜けきっている夫にイライラしたのだ。

失敗しても、意外と大丈夫なのかもな。

そう思うと、将来への不安がだいぶ軽くなった。

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それが11月のことで、その後、私と夫は町田に部屋を借りることができ、翌年の1月に引っ越した。離婚したため一人暮らしになったが、私は今もその部屋に住んでいる。

仕事のほうは、あれから3シーズンほど山小屋を続けたのち、次の道に進んだ。最初はうまくいかなかったが、しぶとく続けるうちになんとか軌道に乗り、ここ数年はフリーライターとして生計を立てている。

遥ちゃんや江原さんや義弟が言った通り、私は時間をかけて少しずつ、自分に合う暮らしを作っていった。子供を持つことも温かい家庭を築くことも叶わなかったが、今の暮らしが自分にとっての最適解であることはわかる。

ただ、私にとっての「最適」はそのときどきで変わるから、この先どうなるかはわからない。引っ越すかもしれないし犬を飼うかもしれないし再婚するかもしれない。そういう意味では、今の私も、先のことがわからない状況だ。けれど、あの頃のような不安はない。

家も仕事も決まっていなかったあの頃のことを思い出すと、今でも不安で胸がぎゅっとなる。

同時に、あの時期に安曇野で遊んだたくさんの友人たちの顔が浮かぶ。あの頃の私はみんなからもらった言葉に支えられていたし、その言葉の数々は、今の私を形作っている。

文=吉玉サキ(@saki_yoshidama

方向音痴
『方向音痴って、なおるんですか?』
方向音痴の克服を目指して悪戦苦闘! 迷わないためのコツを伝授してもらったり、地図の読み方を学んでみたり、地形に注目する楽しさを教わったり、地名を起点に街を紐解いてみたり……教わって、歩いて、考える、試行錯誤の軌跡を綴るエッセイ。
2022年12月30日、年の瀬の常磐線・磯原駅に人の姿は少なかった。改札前のベンチに男性が1人腰かけていたので、私は誰もいない窓辺までスーツケースを引きずっていき、母に電話をかけた。「今、磯原駅。さっきまでKさん(夫)の実家にいたんだけど出てきちゃって……。これから町田に戻る。明日、札幌行きの航空券を取ったの。実家で年越ししていい?」「もちろん。あなたが町田で1人で泣いているより、実家に帰ってきてくれたほうがよっぽどいいわ」駅に来る前に事情をLINEしていたせいだろう、母はすんなりと飲み込んでくれた。通話を終えて、改札前の大きなベンチに座る。どうしてこんなことになってしまったんだろう。