徳川殿の天下とり。征夷大将軍と天下普請
江戸時代は関ケ原の戦いにて徳川殿が勝利したことに始まる。
……と現世では教えられると聞く。
無論、これはまあ間違ってはおらんのじゃが、結果論としての意味合いが強い。
どういうことかを少し時を遡って説明いたそう。
なかなか子に恵まれなかった豊臣秀吉に、待望の後継・秀頼様が生まれたのは秀吉の死の5年前であった。
故に、秀頼様が政権を担えるようになるまでは有力大名が協力して政をおこなうよう、秀吉は遺言しておった。皆も“五大老”“合議制”という言葉は聞いたことがあろう。
秀吉の死後、唯一徳川殿と肩を並べることができたのが儂・前田利家であり、専横の気配を見せる徳川殿を牽制しながらも上手くやっておったのじゃが……力及ばず、儂は秀吉の死のわずか一年後に死んでしもうたのじゃ。
儂の死後、儂がなんとか仲を取り持っておった石田三成らの文治派と、福島正則らの武断派の対立が顕著となった。これに加えて徳川家に権力が偏ったことで親徳川派と反徳川派に別れ、戦は避けられぬ事態となったのじゃ。
そこで起きたのが関ケ原の戦いであるわな。
故に、この戦はあくまでも豊臣家家臣団による内部抗争であって、秀頼様の後見をするという本来の形を損なうものではなかったはずじゃ。
然りながら、戦の論功行賞にて豊臣家の直轄領を徳川殿が諸大名に配った。このことで豊臣家は勢力を大きく削られ、徳川殿は関ケ原の戦いの三年後にしれっと征夷大将軍に任じられておるで、関ケ原の戦いが江戸時代の始まりというのは正しいんじゃがな。
して、徳川殿が天下人へとのし上がった事を示す契機としては「征夷大将軍を任じられたこと」に加えて「天下普請を行ったこと」が挙げられる。
それでは、天下普請とはなんぞやといった話をして参ろうかのう。
徳川殿の天下普請
天下普請とは徳川殿が全国の大名に命じて行った大々的な普請事業のことであり「天下総がかりの大工事」といった意味であるが、これは後に広まった言葉のようで当時は公儀普請などと呼ばれておった。
美濃国の加納城の築城から始まった天下普請では、日ノ本の城郭を代表する名城が数多く建てられた。
・彦根城
・江戸城
・二条城
・駿府城
・篠山城
・名古屋城
・大坂城
などがあげられるな。
天下普請の目的は大きく分けて三つ。
まず天下普請によって築かれた城の場所に注目してみよ。
中山道を見下ろす加納城、畿内から東国に抜ける交通の要所の彦根城、日本随一の大街道であった東海道を抑える名古屋城に駿府城と、重要な街道や関所の近くに築かれた城であることがわかるであろう。
察しが良い者はもうわかったのではないか?
天下普請の目的その一
まずひとつは、外様の西国大名達が万一挙兵した折の前線拠点を築き、江戸での戦支度を万全にするためじゃ!
そもそも徳川殿は関ケ原の戦いの論功行賞にて、徳川の譜代大名には小さな石高ながらも関東近辺を与え、反対に豊臣恩顧の大大名は西国に移らせた。
無論これは反乱を起こされた時を想定してのことであって、天下普請によって徳川方の城が多く築かれたことでより反乱を起こしにくくなったのじゃ。
天下普請の目的その二
二つ目の理由は大名家へ負担をかけることで、大名家を疲弊させ反乱の芽を摘むことである。
先ほども申したように天下普請とは「徳川殿が全国の大名に命じて行った大々的な普請事業」である。全国の大名が、徳川殿の号令の下、普請を行ったのじゃ。
天下普請にかかる銭の一部は徳川家から支給されたそうじゃが、多くのところは大名家に負担を課しておって、これによってそもそも反乱を起こす体力を失わせようという算段じゃな。
しかも天下普請で築かれた城は最新の築城技術を用いておって、規模としても日ノ本有数のものが多い。諸大名は自ら普請をしたことで「これ程の堅城は攻め落とせぬ」と思わされたであろう。
築城の真髄とは戦わずして心を挫くこと。これを成すことが重要であったわけじゃな。
天下普請の目的その三
そして三つ目の理由は、天下に号令をかけることである。
先に申したが、あくまでも秀頼様が大きくなるまでの繋ぎの存在であったはずの徳川殿がいかにして天下人そのものに挿(す)げ変わったのか。
これは「諸大名を従わせた実績」によって天下人となったと儂は思うておる。
豊臣家の代理で政を行っておるはずの徳川家が、徳川家の為の天下普請に全国の大名家を動員し始めた。
この時におかしいと思いながらも反対の声を上げる者がいなかった。強大すぎる徳川家を相手にそんなことはできなかったという方が正しいかのう。
そしてこの反対をしなかったという行為は、消極的にとはいえ徳川独裁を諸大名が認めたことになるわな。
この前例によって徳川家が世を支配することが当たり前の社会になっていったというわけじゃ。
徳川殿は秀吉の死後に禁止されておった大名家間の婚姻を勧めたことにせよ、関ケ原の論功行賞にせよ、非難されないためには堂々とやれば良いというのが実に上手であるな。
無論褒めてはおらんけれども。
じゃが、この天下普請においては反対意見が全く出なかったわけではない。
名古屋城の普請においては福島正則が「(家康殿の居城となる)江戸や駿府はまだ良いが、家康殿の庶子の城の普請にまで駆り出されるのは耐え難」」と漏らしておったりとその負担と徳川殿の勝手に辟易しておる様子は見られておる。
徳川殿の街づくり
かようにして天下普請を境に徳川殿は天下を完全に手の内へ納められた。
関ケ原や大坂の陣はあったけれども、これほど大きな政権交代が起こった中で他に大きな争いが起こっておらんのは徳川殿の類稀なる手腕と運によるものであろう。
織田信長様が本能寺で倒れた時、その後は戦乱の世に逆戻りであったし、平家や鎌倉幕府が滅亡したときも日ノ本は大きく混乱したことを考えると快挙とも呼べるかもしれん。
そして此度は名古屋城を例にして、徳川殿が為したまちづくりについて紹介して終いといたそうかのう。
名古屋城は先に申した通り、日ノ本随一の交通の要所に建てられ、江戸幕府にとっても守りの要であった。
城内に築かれた櫓は他の城なら天守に匹敵する大きさを誇るものがいくつも建てられておるし、総距離1kmを超える多聞櫓に、虎口や堀に至るまで全てが強固に造られておってその重要性に似合う堅城となっておる。
然りながら。
城下町に目を向けると様子が大きく違う。
本来ならば城の正面には家臣達の武家屋敷を並べて、道を折り曲げるなどして城に辿り着くまでにも敵を妨げるように造るのが定石である。
じゃが名古屋城の城下町は、京都の街並みが如く美しい碁盤の目の真っ直ぐな道な上に、城の正面にあるのは武家屋敷ではなく商人街なのじゃ。
名古屋城の城下の建設が始まった頃には、すでに大坂の陣で豊臣家が滅んでおったこともあって、これから始まる太平の時代に主役となるのは商人達で、商人達にとって便利な街づくりをと徳川殿が考えたからであろう。
終いに
此度の戦国がたりはいかがであったか!
皆々が知っておるようで詳しくは知らん豊臣家からの政権交代の話をして参ったのじゃが、よくわかったかのう。
ちなみに、天下普請と聞くと城ばかり造っておる印象が強いと思うが街道の整備や治水工事なんかもこの天下普請に含まれておる。
江戸・神田川の治水工事は伊達家が携わっておると聞くし、駿府の安倍川には薩摩堤と名が残っておって島津家が治水をおこなったのではないかと言われておる。
この時に整備された街道のおかげで江戸時代は旅が随分と楽になって、それによって東西の文化の交流が活発になり、新たな伝統工芸品も生まれたりもしておる。
この辺りについてはいずれ話して参るやもしれんな。
して、そもそも天下普請を民に課せられた労役と考えておる者もいるかもしれんが、これはむしろ逆でな。働き口が増えることで民が潤う現世でいうところの雇用を増やす公共事業に類するものなんじゃな。
こういった意味でも徳川家は大名に厳しく民に優しい政策を行っておったと言えるのじゃ。江戸時代の当初については、であるが。
本年は戦国乱世と平和な江戸時代とそんな話をしようかと思うておったが、大河どらまの一話目を見る限り、江戸時代もなかなか一筋縄ではいかんようじゃな。
これからどんな描かれ方をするのか楽しみであるわな!
というわけで此度の戦国がたりはこの辺りで終いといたそうかのう、
改め皆々本年もよろしゅう頼む。
次の戦国がたりも楽しみにしておいてな!
さらばじゃ!
文・写真=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)