中学に入学したての2日目、上履きから靴に履き替え外に出たところ、破裂音のような怒声が響いた。声のした方へ顔を向けると、小太りの男性教師が私に向かって何かを叫びながら近づいてくる。しかし私には怒鳴られる覚えがない。怒られて怖いというよりも、何が起きているのか理解できず混乱した。教師の叫ぶ不明瞭な言葉をよく聞き、ようやく「カカト踏むな言うとんじゃオラァ!」と言っていると気づいた。確かに私はおろし立ての靴のカカトが硬くて完全に履き切れないまま、10mほどカカトを踏んだまま歩いていた。それは行儀の悪いことかもしれない。けれど100%の力で怒鳴られるほどのことだろうか。
立ち止まって靴のカカトの部分を手でひねり出そうと焦っている間も、教師は「親が働いて買ってくれた靴やろうが‼」などと叫び続けていた。
今後の中学生活で、靴のカカトを踏む以上の失態を犯さないとは思えない。今以上にブチ切れられる機会がこれからの中学生活で何度あるのだろうかと考えると、暗澹(あんたん)たる気持ちになった。
私の学校では全校生徒が何かしらの部活に入らなくてはならず、1カ月くらいの間に部活を決める必要があった。本当は野球部に入りたかったが、いじめっ子タイプの同級生がたくさん入部していたので諦めた。
サッカーだのバレーボールだのを一から始める気にもなれない。小学校の時からやっていた剣道を続けるのがベターな選択肢ではあるが、そこまで剣道を好きではなかった。しかも剣道部の顧問はあの靴のカカトで怒鳴り散らしてきた男である。期限ギリギリまで悩んだが、仲の良い友人が一緒に入るのと、ヤンキーっぽい先輩がいない点を考慮し、結局は剣道部に入ることになった。
なんてダーティな世界
初心者の同級生たちがジャージで素振りなどしている中、経験者の私は入部早々に道着を着て先輩との練習試合に参加し始めた。特別強い学校でもなかったが、やはり小学生のスポーツ少年団と比べるとレベルが違う。何より、ちょっとでも手を抜いたところを見せたら顧問の教師に竹刀でボコボコにされてしまう恐怖心が強く、真剣に練習に取り組まざるを得なかった。先輩が顧問に押し倒されボコボコにされる姿も何度か見た。
剣道では四角く囲まれている線を越えたら場外反則、それを2回繰り返すと一本を取られる。上級生が線の間際で攻防を繰り広げていたところ、顧問が「押せ! 押せ! なんで押し出さんのじゃ! 勝つ気ないんか!」と怒鳴った。
それまで剣道を6年間やってきたが、そんな指示は聞いたことがない。剣道における反則というのは全て事故的に起こるものと思っていた。偶発的に反則を利用して勝とうとする戦略が中学では認められているのか。むしろ反則を取りに行くくらいでないと、やる気に欠けていると判断されるようだ。なんてダーティな世界だろう。
その週の週末、隣の市の中学校へ遠征して練習試合があった。私も同行させられ、上級生の女子たちと対戦することとなった。女子とはいえ上級生なのでみな私より背丈が大きい。不安だったが、実際に対戦してみると大して強くない相手ばかりだった。むしろ3年生も含め全員私より弱い。反則を利用しなくても勝てただろうが、顧問にやる気をアピールしなければならない。相手がちょっとでも場外の線に近づくと躊躇(ちゅうちょ)なく押し出して反則を取りまくった。女子とは言え先輩相手に無双している自分がうれしく、やっぱり剣道部に入ったのは正解だったかもしれないなどと思い始めた。
何度も倒した相手校キャプテンとの数度目の対戦が回ってきた。開始の合図がかかるやいなや、果敢に面を打って体当たり、相手を場外線際まで吹っ飛ばし、そのまま押し出して反則を取る。負ける気がしない。審判に導かれて所定の位置に戻り、試合を再開。再び面を打ち込むと近距離でのつばぜり合いの体勢となった。その時、相手が私だけに聞こえる声で何かを言った。道着のひもが解けたのでも教えてくれているのか。さらに面を近づけ「え? なんですか?」とたずねると、相手は言った。
「卑怯者。そんなことまでして勝ちたい?」
聞き間違えではなかった。鋭利な言葉を言い残したまま引き面を打って離れていく相手を、呆然としながら見送った。
なんでそんな酷い事を言われなければいけないのか。顧問にそう指導されたから頑張って合わせていただけなのに。ていうか別に普通にやったってお前くらい勝てるのに。心の中にいろんな感情が渦巻き、試合どころではなかった。
練習試合が終わり、弁当を食べる時間になった。母親が作ってくれたおむすびを食べていると、悔しくて涙が出てくる。一緒に弁当を食べていた中学の先輩女子が異変に気づき、「あんたなんで泣いてんの」と言うので事の顛末を伝えると、先輩は「そらあんだけ押したら言われるわ」と笑っていた。近くでやり取りを聞いていた顧問は、自分の軽はずみな発言が曲解を招いたことにどことなく気づいている風で、何も言わずに遠くを見ていた。あれだけ怖かった顧問が、ちっぽけな人間に見えた。
それから3年の夏に引退するまで数十回の大会に出たが、あの時の私のような押し出し戦法を取ってくる者は1人もおらず、私もすぐに押し出し戦法を中止したが、あの日の「卑怯者」の誤解を解く機会は二度と与えられなかった。
文=吉田靖直 撮影=鈴木愛子 衣装協力=渡部勇二郎
『散歩の達人』2024年9月号より