山田たかお
1956年8月23日生まれ。10歳の時フジテレビ『ちびっこのどじまん』でデビュー。1984年から『笑点』の6代目座布団運び役に就任し40周年を迎える。
2024年にはユニット「鈴丸姉妹」結成など、活動は多岐にわたる。
子供の頃からエンターテイナー
—— 代々、深川だったんですか?
山田 うちは「山一木工所」っていう木工所をやっていたんです。オヤジの名前から取ったんです。この辺はみんな、木の置き場所ですからね。従業員も若い衆6人くらい、女中さんも2人くらいいて。
オヤジは裕福だった。なんかあると芸者さん呼んだりして。オヤジも踊りを習ったそうなんですね。遊び道楽っていうかね。
—— 遊び方が豪快そうですね。
山田 そしたらある日詐欺師にひっかかっちゃって。それで、木工所も三郷にある土地500坪も、みんな持っていかれた。
—— おいくつくらいの時ですか?
山田 随分小さい時だったかな。
—— お住まいはその後どのように。
山田 会社が潰れちゃったから、若い衆の従業員が住んでたところに引っ越した。ちっちゃなところに6人兄弟に両親と8人家族でしょ。僕は押し入れで寝てた。
しかも僕は末っ子。すき焼き食べる時も、兄弟分6枚肉があるとして、みんな僕の分を狙ってるわけですよ。だからオフクロが僕の分を箸で押さえてるんです。着るもんなんてもう兄貴たちのお古ですよ。
—— 大変な幼少期で……。その頃の深川はどのような町でしたか?
山田 ちんちん電車が通ってましたね。うちから錦糸町まで、ちんちん電車か歩いて行ってました。
—— 学校に行くまでその路面電車を使われていた?
山田 いやいや、子役やってましたから。仕事とかで。
—— デビューのきっかけは『ちびっこのどじまん』ですよね。
山田 10歳ぐらいの時に飛び入り参加したら、チャンピオンになって。それからそのプロデューサーが、NHKの歌番組やるから、推薦してあげるよって。
—— 出ようと思ったのは、小さい頃から歌うのがお好きだったから?
山田 いや、たまたま。江東公会堂に番組が来るっていうので「見に行こう!」って友達10人くらいで行ったんです。収録だったので、出場する子供は事前に決まっていたんです。
そしたら、司会の大村崑(こん)さんが「1人風邪ひいて声が出なくなっちゃって、会場からちびっこマーチでもなんでも歌える人〜!」と呼びかけたから、みんな「はーい!」って手上げたんだけど、僕はそのまま舞台に上がっちゃった。
—— え⁉ 手を上げるまもなく舞台行っちゃったんですね。
山田 そしたら「キミなんだなんだ?」って。「わたし、山田隆夫と申します。皆さん応援してくださいね〜」って始めちゃったんですね。そしたら客席が盛り上がって。それで番組のテーマソングの『ちびっこマーチ』を歌って。
—— 度胸がすごい。
山田 そしたら10点満点でチャンピオンになって。インスタントラーメン6カ月分とステレオ、優勝バッジ持って帰って。そしたら夜、親がインスタントラーメン見て「隆夫、警察行こう」って。
—— なんでですか。
山田 僕が泥棒したって思ったらしくて。収録だから、放送は1カ月後じゃない?
その後、プロデューサーが電話で「何月何日に息子さんが映りますから」って言ってくれて。それで親がテレビ見て本当に映ってるのが分かって。チャンピオンでしょ。もう、泣いてんだよね。
—— 本当だったんだって。
山田 かわいそうに見えたんじゃないですかね、末っ子だったし。
—— 優勝されて学校での評判はいかがでしたか。
山田 みんな「テレビ出た」「チャンピオンになった」ってすごいですよ。いきなり学級委員になった。
—— 分かりやすいですね。
山田 運動会だって必ず応援団長ですから。僕の応援の仕方が面白いから、みんな見に来るんですよ。そうやって昔から、人を呼んで笑わせるのが好きだったんだよね。それでテレビ出てね、自分は改めてこういう才能があるんだって分かったからね。
もんじゃ屋、銭湯、縁日に通う子供時代
—— お友達とはどのような遊びを?
山田 学校から帰ってくるとすぐ、もんじゃ焼き。あとは駄菓子屋さん。多かったですね。駄菓子屋にも鉄板が置いてあってもんじゃやってたから。50円くらいだったかな。
うちらは、家から卵を持って行った。行くとさ、サービスで切りイカとか乾燥のエビとか入れてくれるんだけどね。学校から帰ると毎日それ。夕方になると、毎日みんなでお風呂屋行って。
—— ああ、銭湯ですか。
山田 風呂上りにマミー飲んで。蓋取って当たりってあるとね。もう1本もらえたの。
—— もんじゃ屋さんも銭湯も今はもうないですか?
山田 ないですね〜。麻布の銭湯あるじゃないですか? 昔からの。ああいうのがいっぱいあったんです。
—— 他の遊び場は。
山田 猿江公園でしょっちゅう遊んでました。自分がみんなを集めてマラソン大会。あそこで何周して一番誰が早く帰ってくるかとか。
—— すごくシンプルですね。缶蹴りとかは?
山田 缶蹴り、ビー玉、ベーゴマはやりましたね。
—— 王道の昔遊びですね。縁日も良く行かれてたそうで。
山田 門前仲町の縁日ですね。昔は15日、何日ってあって、バナナの叩き売りとかやってましたよ。
—— そういう時代ですか。
山田 バナナが貴重な時代でしたからね。後は、ばくだん(ポン菓子)。お米持っていくと、鉄鍋にばあ〜ん! って落として、煙出してせんべい作ってくれる。あと、昔はクジラの、ベーコンじゃなくて南蛮漬けみたいなのをよく食べてた。それは露店じゃなくて、商店で。
—— 味が濃いやつですよね。
山田 そうそう。クジラの竜田揚げはよく給食に出たよね。今はクジラ高いからね。こないだ渋谷のクジラ店行ってみたら、クジラのベーコン1枚700円だよ。
人気子役からとんでもない出世?
—— 奥さまもご近所にお住まいだったんですよね?
山田 うちのは深川二中。僕は深川七中。
—— 子供の頃からお知り合いだったんですか。
山田 『(あゝ)野麦峠』という番組で女工さんの役で来てた。僕は検番の役で、現場は雪の中。寒いでしょ。それで「キミどっから来たの?」って聞いたら「深川の門前仲町」って。
「え、そうなの? じゃあ、あそこ知ってる?」って聞いたら、みんな知ってんの。
—— それで仲良くなったんですね。
山田 妻のお父さんは、「歴代横綱扇子」ってのを考えた人で、扇子に初代から横綱の名前入れたんです。相撲文字でね。大関の扇子も。
僕も相撲好きなんで、富岡八幡宮の大関力士碑の両脇に、お父さんの字で山田隆夫、息子の山田太一って彫らしてくれって宮司さんにお願いしたんですよ。そしたら「はい、いいですよ〜」って。
—— ものすごく寛容ですね。
山田 妻のお父さんのおじいちゃんたちは横綱力士碑に名前が入ってるから。俺たちは大関の石碑で。
—— 山田さんのお名前の上にはしっかりと「笑点」とありますね。
山田 ただの山田隆夫じゃ分かんねえだろって。ただ、もう字が黒くなって見づらくなっちゃったのね。それで今年「宮司さん、黒で俺の名前分かんないよ」って言ったの。この前見に行ったら、ちゃんと白で字を書き直してくれてた。
—— もはや神様扱いですね。
山田 岩手だと神様の使いって赤い猿なの。だから僕、赤い猿なの。申年だし。
—— お召し物も赤ですしね。
山田 こないだ、夢に六代目円楽さんが出てきたんですよ。「師匠何してんですか?」って聞いたら「俺もう行くところねえんだ」って。「病気だから、早く帰ってゆっくり休んだ方がいいですよ」って言ったの。次の日ニュース見たら、円楽さんの眠ってる釈迦尊寺ってとこが、全焼したって。
—— えー! 本当に神がかってる!
山田 円楽さんも砂町で、ご近所さんですしね。
—— この辺で一緒に飲まれたこともあるんですか?
山田 石倉三郎さんの奥さんの店(『花菱』)に。2人の結婚式にも出たから、門前仲町でお店やってますって誘われて行ってみたら、横山やっさんがいたの。怖いよ。おい山田! こっちこい! って。
—— 何が起きるんでしょう……。
山田 あの人、僕のことすごくかわいがってくれたの。僕がボクシングのプロ試験受けた時も、後楽園に見に来てくださった。そしたら「ボクシングはやめた方がいいよ。それより……船乗んないかい?」って。
(スタッフ一同爆笑)
—— さすがですね。
山田 ボートレース選手は僕みたいに軽量の方が有利だから。『さらばハイセイコー』を歌った増沢騎手も会ったら「すみません、ちょっと体重測っていいですか?」って。
—— さすがに、競馬にも行かなかったんですよね。
山田 さすがに行かなかったね。やだよ、ずっと馬と一緒は。“うま”くいかないよ。
—— お後がよろしいようで。
取材・構成=久保拓英(『散歩の達人』編集長) 撮影=オカダタカオ
『散歩の達人』2024年7月号より