最澄と空海、2人以前の仏教は国のためのものだった!

最澄や空海の活躍前である奈良時代創建の西大寺。
最澄や空海の活躍前である奈良時代創建の西大寺。

空海と最澄は、今から1200年くらい前、平安時代のお坊さんです。

2人が起こした仏教ムーヴメントを知るには、その前の時代について少しだけ知っておくとよいでしょう。

仏教が日本にやってきたのは西暦500年代。日本は国の安定した運営のために「国の宗教」として仏教を取り入れました。

僧侶も今でいう国家公務員のような存在。

そうしたことから、仏教に真に触れて学べるのは国のお偉いさんだけというものだったのです。

そこから時代が下ると、当時先進国だった中国から様々なノウハウを学ぼうと、日本は「遣唐使」を出します。

土木や法律など、国内屈指の専門家集団が船で唐(現在の中国)へ。

その中に、仏教を学んで持ち帰る僧侶として空海と最澄も唐へ渡っています。

いわば国家プロジェクトの一員に選ばれた人物なのです!

数々の天才エピソードをもつ空海

三筆(三大書家)にも数えられる達筆だった空海。
三筆(三大書家)にも数えられる達筆だった空海。

空海は、幼少期から大人でも理解できないような書物を読破し、天才の名をほしいままに。

お坊さんになってからも、そのキレまくる頭脳で仏教の道をすごいスピードで追求していきます。

国が遣唐使の制度を開始したのは、空海が僧侶になってすぐのこと。

遣唐使に選ばれるのは各分野のトップの専門家。空海はルーキー的なキャリアでしたが、頭脳明晰っぷりと父が地方の有力者であったことから抜擢されたのです!

しかし、空海の乗った遣唐使船が嵐に見舞われ、唐の都(みやこ)から遠い砂浜に流れ着き、海賊と間違えられて刑務所にとらわれてしまいます。

そこで空海は、類稀なる知識と腕を発揮。

唐に渡るのは初めてだったにも関わらず、すでにマスターしていた唐の言葉で「我々は日本からの正式な使者である」という旨の書をしたためて提出。

その書を見た唐の幹部が、その美しい筆跡と文章を見て「これは正式な使者に間違いない!」と、すぐに都へ呼び寄せたのです。

こうして無事、唐で仏教を学ぶことになった空海。

理解に10年以上かかるとされる仏教の真髄を、空海はわずか3か月で理解しきったといいます!

考えるな、感じろ!を広めた空海

法具を握るポーズが空海像の特徴。
法具を握るポーズが空海像の特徴。

空海が唐で学んだことを自分のものにし、日本で広めたのは真言宗という密教。

空海は、「密教は文筆で表し尽くすことが難しい。図や絵を使って開き示すのだ」と言っています。

それまでの仏教のように文字や言葉で学ぶのではなく、図や絵からこそ密教の真髄は感じ取るものだということです。

まるでブルース・リーの名言「考えるな、感じろ!」のようですね。

読み書きができる人がまだ少なかった時代。「感じろ!」を中心に置く空海の教えは瞬く間に日本中に広まっていったのです。

さらに、それまでの仏教との違いは、即身成仏を謳った点も広まった要因です。仏教は、国を守るためから、個人が悟りに至るためのものに変わっていきました。

空海は、仏教の軸足を国から民間におろし、信仰のスタイルまで変えた超重要人物なのです!

最澄と空海の親交と決別

日本の僧侶のトップオブトップだった最澄。
日本の僧侶のトップオブトップだった最澄。

空海より7つ年上の最澄は、当時ペーペー扱いだった空海とは違い、日本仏教のトップ僧侶として唐に渡りました。

唐では密教だけでなく、禅など仏教のその他の教義も広く習得。

日本では、国を守るための宗教だった奈良時代の仏教のあり方に疑問を持ち、比叡山にこもって修行をしていた最澄。

日本へ帰ると、全く新しい仏教の総合大学のような天台宗を開いたのです。

それは、空海の開いた精鋭的な密教である真言宗とも一線を画していました。

 

総合的な宗派の教えをより確かなものにするため、最澄はプライドさえも捨てています。密教の真髄を学ぶため、お坊さんとしての格も年齢も大きく下の空海に弟子入りをしたのです。

そして何度か、空海に「経典、見せてくれない?」と頼み、経典を借りています。

しかし、「貸してくれない?」が何度か続いた頃、空海が経典を貸してくれなくなります。

さらに、空海の元へ学ばせに行っていた自分の愛弟子が、空海に心酔して帰ってこなくなったのです。

最澄は何度も「帰ってきなさい」との手紙を送りましたが、ついに音沙汰なし。

こうして空海と最澄は決別し、それぞれの道を進むことになりました。

仏教の総合大学を作った最澄

深大寺(調布)は天台宗の名刹。
深大寺(調布)は天台宗の名刹。

なんだか可哀想にも思えるかもしれませんが、最澄が後の時代に残した功績がすごいんです!

天台宗は総合大学のような存在だったわけですが、次の時代に花開く鎌倉仏教の開祖たちも皆、元は天台宗で学んだお坊さんでした。

浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、曹洞宗の道元に臨済宗の栄西、さらに日蓮宗の日蓮まで、名前をあげるとキリがないほどのメンバーが天台宗の出身。

現代にもつながる各宗派の開祖たちを輩出しているので、最澄が修行した比叡山は「日本仏教の母山」とまで呼ばれています。

そんな天台宗を開いた最澄は紛れもない偉人なのです。

 

空海と最澄は、いずれも平安時代を象徴するお坊さんです。しかし、今回のように人生を辿ると、二人の辿った道や信念はまったく違ったことがわかります。

次回は、この空海や最澄の後の時代に登場し活躍した「鎌倉新仏教」のメンバーについて迫っていきます。

写真・文=Mr.tsubaking