雪解けとともに始まるもの

なんせ我らの時代、現代と比べても非常に冬の寒さが厳しい時代だったからのう。

冬にはなかなか戦が捗らんかった為に、春を待ち、雪解けとともに戦を始めることが多かったのじゃ!!

桶狭間の戦い、金ヶ崎の退き口、長篠の戦い、賤ヶ岳の戦い、大坂夏の陣といった有名な戦の多くもこの時期に起こっておる!

有名な戦の多くは四月や五月に起こっておって、現代でも戦のあった日に合わせ、各地の史跡で祭りが催されるなど我らにとっても良い季節であるな!

そして戦国時代の戦として決して忘れてはならぬ、動乱の始まりとなった「応仁の乱」もその一つじゃ。

応仁の乱が起こったのは応仁元年(1467)五月二十六日。

戦いはその後十年以上も続き、約百五十年の長きにわたる戦国時代へと繋がっていくこととなるのじゃ。

此度の戦国がたりは、波乱の時代を呼び起こした大戦、応仁の乱について語って参ろうではないか!

応仁の乱とは

先ずは簡潔に応仁の乱を一言で紹介いたそう。

 

応仁の乱とは、何故始まり何故終わったのかが実に不明瞭で全体の流れも難解な全然よくわからない戦である。

 

銀閣寺を建てたことで知られておる足利義政様の、後継を巡る争いが元となった戦で、その争いが日ノ本中の大名に広がったことにより泥沼化したのじゃが……。

参戦勢力の膨大さと、それぞれの大名の思惑が複雑に絡み合っておって、その全貌を掴むのが極めて難しい。

それどころか、先に申した「将軍家の後継争いに端を発した」というのも突き詰めれば正確ではないとさえ言える、正に複雑怪奇な争いなのである。

開戦時と終戦時では両軍の大将が入れ替わっておったり、両軍による和解が成立してから3年以上戦が続いたりと、不可思議なことが多く起こった戦なのじゃ。

先に五月二十六日に始まったと申したが、多くの勢力争いがきっかけとなった戦である為、いつを始まりにすればよいのかすら議論のある戦である。

現世を生きる皆にも難解であろうが、当時の文(ふみ)にも何がなんだかよくわからないと書かれておる。

応仁の乱から五世紀以上の月日が流れるが、これまで誰一人として完璧に把握できたものはいないと、面白おかしく語られておるくらいじゃ。

此度は応仁の乱において、特に重要な要素をなんとか加賀百万石の頭脳にて絞り出し、皆に紹介して参ろう。

応仁の乱のきっかけは?

先ずは主要な登場人物の紹介じゃ。

当時、日ノ本の権力者は室町幕府八代将軍・足利義政様。穏やかで趣のある東山文化を広めたお方じゃ。

銀閣寺がその代表的な存在で、この静かさと簡素さを重視する美しい文化は戦国時代に流行した侘び寂びの精神へと継承されていった。

義政様は東山文化を広めただけあって、大人しいお方であったと伝わっておる。

じゃが、それと同時に政治に意欲的ではなく、無難を求める性格でそれが応仁の乱の一因とされておる。

そんな義政様の正室は日野富子様。

北条政子様、茶々様と並んで“日本三大悪女”と称されるお方じゃな!

大人しい義政様に、剛気な富子様と正に好対照であるが、二人の間にはなかなか子供ができなかった。

早くに隠居することを望んでおられた義政様は、弟の義視様を次期将軍に定めた。

じゃが、なんとその翌年に、義政様と富子様の間に嫡男である義尚様が生まれたのじゃ。

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なんとしても我が子を将軍にと望む富子様が当時の幕府の山名宗全殿に近づき協力関係を築く。

そして既に後継に定められておった義視様とその後見人である細川勝元殿と対立することとなった。

山名家と細川家は当時の幕府の二大勢力。

この両家の対立に他の大名たちがそれぞれに味方して収集がつかなくなっていったのじゃ。

ついに開戦

様々な思いが絡み合い、義尚様派の山名宗全殿が率いる西軍と、義視様派の細川勝元殿率いる東軍は、京の都にて遂に開戦となる。

これが五月二十六日に起きたで、応仁の乱はこの日からとされることが多いわけじゃ。

日ノ本各地から大軍が押し寄せ、都で大戦となった為、朝廷も避難せざるを得なくなり、将軍の住まいに身を寄せることとなった。

因みにこの期間、義政様と帝は度々宴を催すなど多くの時間を共にして、えらく仲がよくなったと言われておる。

日ノ本の歴史で最も武家と朝廷が良好な関係を築けた時期とも言えるやもしれんな!

さてこの大戦は義政様が常に和睦を目指し動き続けられ、利のない大戦に疲弊した山名・細川の両軍大将が1472年に和平交渉が行われるも失敗。

何としても戦をやめようと、山名宗全殿と細川勝元殿が隠居し、政治の世界から身をひいてもなお戦は収まらなかった。

参陣しておる大名たちがそれぞれ目的を掲げておって、それが叶うまでは戦をやめるわけにはいかなかったのじゃ。

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例えば東軍についた赤松政則殿は山名家の領地を攻めとっておって、和睦が成立しとった領土を返還せねばいけなくなることを恐れておった。

多くの大名が参陣したが故に、皆の良い落とし所を見つけるのは難しく、停戦まで漕ぎ着けることが叶わなかったというわけじゃ!

宗全殿も勝元殿も、隠居の翌年である1473年に亡くなって、両軍の大将が居らぬまま続いた。

そして遂には義政様が将軍の座を嫡男・義尚様に譲られて開戦当初の権力者が全員退く形となった。

それでも戦は終わらず三年以上続き、西軍の最大兵力であった大内家の降伏によって1476年に一応の終幕を迎えることとなった。

形式としては東軍の勝利に落ち着いたのじゃが、両陣営の将に討死した者がいなかった上に西軍についた大名たちが罰されることはなく、勝敗のつかない戦であったと言えるであろう。

これが大まかの流れなのじゃが、皆々ついて来ておるかな?

本番はここからじゃ

して、これからが応仁の乱の本番である。

絡み合う諸大名の思惑、これを紐解かねば応仁の乱の全貌は見えてこないのじゃ。

じゃが、えらく話が長くなったでな、一旦この辺りで終いといたして次回の戦国がたりで応仁の乱をより深く解説いたそうかのう。

戦国時代の始まりの話や、織田信長様が尾張に大きな勢力を持つきっかけについても話して参ろうではないか!

多くの人物が登場し、相関を追うのが難しいと思うで、此度の話を何度も見返し次回の戦国がたりに挑むが良い!

それでは次回の戦国がたりで待っておるぞ!

文・写真=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)