出世の石段【虎ノ門】

港区愛宕1丁目、愛宕山の上にある愛宕神社には「出世の石段」と呼ばれる階段があるそう。

いつからあるのか、なぜ出世の石段と呼ばれているのか、その由来や歴史を現地で確かめるべく、早速現地に行ってみました。

港区の愛宕神社は、1603(慶長8)年に徳川家康の信仰した勝軍地蔵を迎え創建されたとされています。

京都の愛宕神社を総本社とした愛宕信仰のある神社で、防火・防災の御利益があるそう。

江戸時代には信仰の地としてだけではなく、見晴らしのいい観光名所としても親しまれてきました。

最寄りは地下鉄日比谷線虎ノ門ヒルズ駅。

「出世の石段」がある愛宕神社までは駅から徒歩6分ほどで到着します。

こちらが愛宕神社。木々の緑と鳥居の朱色がなんとも美しいです。「出世の石段」があるのは、鳥居をくぐってすぐ目の前。

出世の石段という名前は、1634(寛永11)年に徳川家光のある一言から起こった出来事に由来しているそう。

徳川秀忠の三回忌を増上寺で行った帰り道、愛宕山の山頂に梅が咲いているのを見た徳川家光は「あの梅を馬で取ってくる者はいないか」と言い出します。

その場にいた家臣たちは流石に無茶だと思い口をつぐむばかり。

そんな空気の中、馬で石段を見事に駆け上がり、梅の花が咲く枝を取ってくることに成功した人がいました。讃岐丸亀藩の曲垣平九郎(まがきへいくろう)という男です。

驚いた徳川家光は、平九郎を「日本一の馬術の名人」と讃え、それ以降、平九郎は馬術の名手として名を馳せるようになりました。この逸話が「出世の石段」の名前の由来となっています。

ちなみに、愛宕神社の歴史の中で平九郎のように馬で石段を登ることに挑戦した人は数人いるそうです。

実際に登ってみたら、手すりをつたいながらでなければ怖くて登れないほどの急勾配でした。

美髪・厄除け「柳の井」【湯島】

美しさというものは時代と共に移り変わるものですが、そんな中でも長い間変わらずに美人の絶対条件として認識され続けていたのは、「長くつやのある美しい黒髪」でした。

髪型・髪色のバリエーションが豊富になり、美しさの定義が画一的でなくなった現代ではあまりピンとこない話かもしれません。

しかし文京区湯島には、現在も美髪・厄除けの御利益があるという霊水「柳の井」が残されているようです。

地下鉄千代田線の湯島駅が最寄り駅で、学問の道を歩いていくと、湯島天満宮の裏手に心城院(通称・湯島聖天)が見えてきます。

心城院の創建年は1694(元禄7)年で、「柳の井」があることから柳井堂と呼ばれることもあるそう。

こちらが「柳の井」。説明板によると、「数滴髪に撫でれば水が垢を落とすが如く、髪も心も清浄になり、降りかかる厄難を拂(はら)ってくれると伝えられている」そうです。

この井戸は江戸時代の文献『江戸砂子』『紫の一本』にも登場し、「この井は名水にして女の髪を洗えば如何ように結ばれた髪も、はらはらほぐれ垢落ちる。気晴れて、風新柳の髪をけずると云う心にて、柳の井と名付けたり」と記されているとのこと。

髪を美しくする御利益のあるこの霊水。現代では艶やかな髪を保つためにヘアオイルなどを使用しますが、古来の人々は一体どうしていたのでしょう。

最も古い整髪剤の記述は奈良時代の書物『日本霊異記』で、当時は髪に艶をだすため、植物性油脂だけではなく動物性油脂も使用していたそう。

江戸時代初期には香りのいい香油を混ぜた整髪剤「伽羅の油(きゃらのあぶら)」が登場します。これが一般販売されるようになったのは江戸時代中期ごろ。

しかし庶民が髪を洗うことができたのは多くて月に1、2度だったそうで、それもたいへんな重労働でした。

シャンプーなどはない時代です。江戸時代後期の美容指南書『都風俗化粧伝』によると、うどん粉とふのりを混ぜて溶かした湯を髪に揉み込んでから洗い流し、油分や汚れを落としていた模様。

ドライヤーもないため、髪を乾かすのも一日がかりだったといわれています。

厄除け・開運の御利益がある「柳の井」ですが、「数滴髪に撫でれば水が垢を落とすが如く、髪も心も清浄に〜」という文言にも、当時の女性たちはぐっときたのではないでしょうか。

開運坂【大塚】

文京区湯島の「柳の井」続いて、文京区大塚5丁目と6丁目の間にある、「開運坂」も訪れてみることにしましょう。

「開運坂」は、長さ130メートルの坂道で、護国寺の裏手にある住宅地の中に存在しています。

なんとも縁起のいい名前の坂道ですね。

地下鉄丸ノ内線の新大塚駅から徒歩4分ほど歩くと「開運坂」が見えてきます。

坂の脇に立つ説明板には坂の名前についての記述がなく、帰宅してから再度調べても明確な文献は見当たりませんでした。謎は深まるばかり。

かつてこの坂の上には柔道の総本山・講道館の道場があったとされ、創設者の柔道家・教育者の嘉納治五郎が命名したという噂もあるそうです。

あくまで噂ではありますが、もし本当にそうなのだとしたら、「この坂を自らの足で上りきって道場に入る」ということに「運を自分の力で切り開いていってほしい」という、柔道家であり教育者としての嘉納治五郎の精神性が見えるようだなと、そんな考察をしたのでした。

取材・文・撮影=望月柚花

 

【参考サイト】
・東京都港区ホームページ「みなとアーカイブ 浮世絵でみる今昔03 愛宕山」https://www.city.minato.tokyo.jp/kouhou/kuse/koho/ukiyoe/ukiyoe03.html
・湯島聖天 天台宗 心城院ホームページ
https://www.shinjyo-in.com/
・坂学会 「東京の坂」リスト【23区】内
http://www.sakagakkai.org/profile/list-Tokyo23ku.html