登場人物
桂あけみ……葛飾柴又にある朝日印刷の長女。素行や学業はちょっとアレだが明朗活発な高校2年生。兄は地方の大学に進学のため親元を離れ、弟・妹はともに小学生低学年。
桂梅太郎(タコ社長)……あけみの父親で、誰が呼んだか通称・タコ社長。この頃、40代後半。家業の朝日印刷は不況の真っ只中。はたして復活の日は来るか?
車竜造(おいちゃん)……柴又帝釈天参道の団子屋「とらや」6代目店主で、さくらの叔父。この頃、50代か。少し冷めた視線で周囲を見守る姿が、ある意味シュール。
車つね(おばちゃん)……竜造の配偶者。子宝に恵まれなかったせいか、さくらやあけみを我が子同然にかわいがる。世話焼きの人情家の一面も。
諏訪桜(さくら)……竜造、つねの姪。この頃、30代前半か。あけみからすると頼りになるお姉さん。地域社会にとってはかけがえのない良識の婦人。ストレスたまらないかな?
諏訪博……さくらの配偶者にして、朝日印刷の主任技師。柴又に住むようになって十数年経とうというのに、いまだに地域じゃ浮いているように感じるのは気のせい?
源吉(源公、源ちゃん)……題経寺(柴又帝釈天)の寺男。この頃、20代半ば? 帝釈天界わいの愛されキャラ、マスコット、愛玩動物……。まあ、そんなところ。
【本編】1977年、そしてあけみは家を出るのだ
前日15:30 騒動の予兆
「ひがっしむっらやぁま~。おばちゃーん、行ってきまーす」
「もうっ。変な歌、歌うんじゃないよっ。満男ちゃんが真似したらどうすんだいっ」
「もう遅いよ。満男くんもこないだ歌ってたもーん。いっちょめ、いっちょめって」
「満男ちゃんが間違ったほうに行っちゃったらあんたのせいだからねっ」
「おばちゃん、ここって柴又何丁目だっけ?」
「七丁目だよ」
「ななちょめななちょめ、わあお」
あけみはつねの叱言を聞き流し、逃げるように柴又駅方面に去って行った。
「まったくしょうがない娘だよ」
悪態をつきながらも、つねの表情は優しい。
あけみもまた高校2年生となった今も、子供のいない団子屋の夫婦に甘え、姪のさくらを実の姉のように慕っていた。
幼少期のあけみにとって、「とらや」の庭や店舗が遊び場てあり居場所だった。学校から帰るのも遊びから帰るのも、ほぼ決まって「とらや」の店先から。団子屋と印刷所との通用口を最も多く行き来していたのは、父親ではなくあけみだったのかもしれない。
その通用口から、慌てて入ってくる人影……。父・梅太郎だ。
「いま、あけみが出て行かなかったか?」
険しい表情で、つねに尋ねた。
「ああ、いま出かけてったよ」
「どんな格好してた?」
「どんなって、シャツにズボン履いて」
「派手じゃなかったか?」
「あたしにゃ普通に見えたけどね。どうかしたのかい?」
「あけみのヤツ、最近、帰りが遅いんだよ。9時とか10時とかさ」
「あれまあ」
「今日も学校から帰って来たかと思ったら着替えて、どっか行っただろ。怪しいんだよ」
「あんたも苦労が絶えないね」
「あ~やだやだ」
梅太郎は愚痴を撒き散らしながら、自宅に戻って行った。
その日の晩10時過ぎのこと、「とらや」裏手の朝日印刷の自宅部分あたりから、梅太郎の怒声が響いた。よくよく聞けば、あけみとの口論らしかった。
「ウチのお客が言ってたぞ。教習所の帰りに金町でおまえを見かけたって!」
「金町なんて隣町なんだから、みんなよく行くわよっ」
「オレが言いたいのは、金町は金町でも北口のスナックとかキャバレーとか並んでるあたりだ。しかも夜9時過ぎだって言うじゃないかっ」
「ちっ。見られたか……」
あけみはバツが悪そうに頭を掻いた。
「やっぱり本当なんだなっ。そ、そんなふしだらな娘に育てた覚えはないぞっ」
「タコに育てられた覚えもありませんけどぉ」
「こいつぅ、親に向かってタコとはなんだタコとはっ」
もちろん、そんな喧騒は隣家の「とらや」に丸聞こえだ。
「おいおい始まったぞ」
「あたしゃイヤな予感してたんだよ」
「それにしても、今夜はいつもより激しいな」
「いつものことだよ。ウチは寅ちゃんですっかり慣れてるけどね」
翌9:00 家出と誤字と置き手紙と
「た、大変だよっ、大変!」
まだ朝食の片付けも終えていない「とらや」の炊事場に梅太郎が飛び込んできた。
「なんだい。朝っぱらから騒々しいねえ」
洗い物をしていたつねが応じる。
「あ、あけみが、こ、こんなもの残して出てっちゃったんだよ」
「なんだい?こんなものって……」
つねは老眼鏡をかけて差し出された紙片に目を通した。
深さないでください あけみ
「あらま下手な字だね……。ん~? でもどういう意味だい? この『ふかさないでください』って?」
つねは茶の間の竜造に問いかけた。
「見せてみな、えー、どれどれ……。馬鹿! 字が間違ってやがる。『深』(さんずい)じゃなくて『探』(てへん)、『さがさないでください』だろ」
「なんだ、そんなことか。それじゃまるで家出じゃないかい?」
「そうだよっ。やっとわかったのかよっ。のんきな人たちだなっ。あけみ、家出しちまったんだよぉー」
梅太郎のヒステリックな絶叫は、店の外にまで響いた。
その頃、当のあけみの姿は帝釈天の帝釈堂裏手にあった。背にはリュックサック、右手にボストンバッグと、絵に描いたような家出娘の装いで、行く当てなくたたずんでいる。
そんなあけみを、掃き掃除をしていた帝釈天の寺男・源吉が見止めた。
「あけみぃ、そんなとこで何しとんや」
「あたし、家出してきたの」
「いひひひ、家出……」
家出というには近すぎる距離感がおかしかったのか、源吉は声を潜めて笑った。
「何がおかしいのよぉ」
拗(す)ねた様子で足下の小石を蹴るあけみ。そして、ふと顔を上げて寂しそうに尋ねた。
「ねえ源ちゃん、いいトコ知らない? 家出先……」
10:30 労働者諸君、全員集合!
穏やかな休日を過ごそうとしていたであろう寮住まいの従業員を、梅太郎は無情にも召集した。自宅でくつろいでいた博も呼び出されている。すべては行方不明のあけみを捜索するためだ。
「悪いな、みんな、せっかくの休みに」
「いや、社長、それはいいんですけどね。あけみちゃん、たぶん友達のところにでも行ってるだけじゃないですか。すぐ帰ってきますよ」
博が代表して梅太郎の軽挙を諌めた。職工の青年たちも目顔でうなずく。
「博さん、オレぁ博さんがそんな冷たいヤツとは知らなかったよっ。いいよ。わかった。オレひとりで探すからっ」
泣き出さんばかりの勢いで梅太郎は拗ねた。
「わ、わかりましたっ。わかりましたよっ。みんなで探しますよっ」
博はそう言うしかなかった。
「そうかい? 悪いなあ。恩に着るよ」
うなだれる梅太郎。それを半ば無視するように博が場を仕切る。
「じゃあ、みんな聞いてくれ。手分けして探そう。中村君たちは金町・亀有方面。僕らは江戸川土手を下って小岩方面を探そう」
博以下、士気上がらぬ6人の従業員は渋々「とらや」を後にした。
「博さん、これ休日手当て出るかな?」
古株の中村が博に尋ねた。
「このところ注文減ってるからなあ、出ないとは思うけど、社長にはそれとなく言い含めておくよ。さっ行こう」
一方、一部始終を茶の間から他人事のように眺めていた竜造とつね。
「なあ、つね」
「なんだい?」
「社長、どうしてウチで朝礼してんだ?」
「知らないよ。そんなことっ」
12:30 司令官・タコ社長
その日の正午を過ぎても、あけみの捜索に進展はなかった。その頃は当然「とらや」は営業中だ。にもかかわらず、梅太郎は店を出たり入ったりと落ち着きがない。
「ちょいと。あんたは探しに行かないのかい?」
呆れて、つねが尋ねた。
「オレは司令官だよ。司令官は指令部でドッシリと……」
「そんな司令官ばかりだから日本は戦争に負けたんじゃないか」
つねは的を射ない例えで不満を口にした。
「社長、店のなかウロウロしないでくれよ。うちは客商売なんだよ」
そう竜造が言いかけた時だった。
リリリリーン
帳場の黒電話が鳴った。
「ああ、オレだ。おう博さん」
当たり前のように梅太郎が受話器を取った。
「どうだい? そっちは? だめか……」
「それじゃあ捜索範囲、広げてくれ。うん、立石、四ツ木方面……」
「昼飯代? わかったよ、経費で落としていいよ。その代わり、領収書もらってな。宛名『上様』じゃダメだぞ。前(有)で『朝日印刷所」、な」
テレビの刑事ものに出てくる上役気取りなのだろうか。梅太郎は少々図に乗っているようだ。
それを目の当たりにした竜造とつねはいよいよ呆れた。
「なあ、つね」
「なんだい?」
「社長、受話器取って『ああ、オレだ』って……、ウチの電話だぞ、ウチの」
「よしなよっ。もう好きにさせときゃいいんだよっ」
13:30 その頃、あけみは……
ゴッゴッ。源吉の拳が木戸を叩くと、内側から女の声が返ってきた。あけみだ。
「合言葉」
「お、おう」
「『寅』!」
「『馬鹿』!」
「よし! 入れ!」
「源の字、つけられなかっただろうな」
「ぬかりはございやせん」
そこまで言うとふたりは肩を叩いて大笑いした。
「あけみ、おもろいな」
「源ちゃん、あんたも役者だねえ」
「昼飯もろうて来た。団子」
「でかした源ちゃん。でもどうやって?」
「境内で物乞いが行き倒れてるゆうてな」
「物乞い扱いかよお」
「ぜいたく言うな。代わりにこれでも読んどれ」
「わあ、ジャンプ! 源ちゃん気が利くぅ」
「先週のやけどな」
「ねえねえ源ちゃん知ってる?この『こちら亀有』なんとかって漫画。面白いよお。主人公の警官がもうメチャクチャでさあ」
家出中の身分であることをすっかり忘れている様子のあけみ。そんな姿を見て源吉は少しホッとした。
「ワシ、寺の仕事せな御前様に怒られてまうから帰るわ。晩飯んとき、また来る」
13:30 労働者諸君、面従腹背
同じ頃、中村に率いられた一派は、奇しくもあけみが読んでいる漫画の舞台・亀有にいた。ちょうど昼飯に入った亀有銀座商店街の中華料理屋から、中村が「とらや」に腰を据える梅太郎に状況報告をし終えたところだった。
「社長、なんて言ってた?」
「捜索範囲、広げろってさ。今度は水元公園のほうに……」
「ええ~?」
「葛飾区民が家出で水元公園って、行かないんじゃないか、普通」
「博さんたちも見つからないみたいだよ」
「そもそも家出なんかしてないんじゃないの?」
「オレもそう思うんだけどね、社長があれじゃ」
「どっかの喫茶店でブロック崩しでもやってるんだろ」
金町・亀有方面の捜索に当たっている3人の従業員は、口々に不満をぶちまけた。
「おかみさんはどうしてるんだ?」
「家にいるよ。『どうせ夕方になったら帰ってくるよ』ってさ」
「ダンナと違って放任主義だね」
「ここで適当に時間つぶそうぜ。飯代、経費で落としていいってことだから」
「異議なーし!」
「あ、お姉ちゃん、ビール2本追加ね~」
17:30 あけみ改心か
すっかり日が傾いた頃、あけみの家出先に源吉がやって来た。
「ほれ。晩飯や」
「また団子ぉ? 昼と同じじゃん!」
「同じちゃうで。さっきのは『とらや』で今度は『高木屋』」
「同じだよぉ。団子飽きたぁ。上海軒のチャーシュー麺喰いたいよぉ」
「アホ。金ないわ」
半日、あけみのわがままに振り回されて、源吉は辟易していた。家出娘の片棒を担ぐという罪の意識も、この男なりに感じ始めている。もう潮時だろう。
「なあ、あけみ。おまえ、もう帰ったほうがええんとちゃうか」
「イヤだあ。娘にあんなコト言う親のトコなんか帰りたくない」
源吉は一瞬寂しげな顔をしてあけみを見つめ、そして言葉を継いだ。
「それ……、言うてくれる親がおるっちゅうことやろ」
(あ……)
あけみは源吉が天涯孤独の境遇であることを思い出し、神妙な心持ちになった。
(源ちゃんに免じて帰ってやるか……)
「わかった。わかったけどさあ。今さらどんな顔して帰ったらいいんだよお」
(知らんがな)
そう言いかけた源吉だったが、ちょうどその時何かを見つけ、ニヤリとあけみに答えた。
「ワシ、ええコト思いついた」
〈後編につづく〉
取材・文=瀬戸信保 イラスト=オギリマサホ
※この物語はフィクションです。実在の店舗名とは関係ありません。また映画「男はつらいよ」シリーズおよび同作の登場人物とも関係ありません。なお亀有在勤の某有名警察官と接触があったかどうかは確認できていません。