民の暮らし
先ずは、農民や商人ら民の暮らしについて話して参ろう。
実は戦国時代、民の間では男女間の役割の違いはほとんどなかった。
意外かも知れんが、何もかもが便利な現世とは異なり日々の暮らしのために、せねばならんことが多くあった。故に力を合わせ共に働くことで共同体として成り立っていた次第である。
農業なんかはそれの最たるものじゃな。
特に戦国時代においてはそれが顕著であった。
これまでの時代は大きな力を持つ農民が多くの土地を持ち、隷属的に多くの民を従わせる形で運用していた。
それが戦国時代になるとこれまで支配されてきたものたちが独立し各々が持つ小さな土地を自らで管理するようになったのじゃ。
いわゆる小農民と呼ばれるものたちである。
これによって組織、即ち家族の一人一人が重要な働き手となり、夫婦が協力し合う必要がより高まった次第である。
商人においてもこれは同様で夫婦経営の商家はもちろん、女大商人も珍しくはなかったのじゃ。
ちなみに日ノ本が古くからの家を継ぐことを重視し、後継となる男児を大切にした影響で、次男三男といった男余りが常態化しておった。大地主に隷属するものの色恋は御法度であったのだ。
戦国時代においては多少はマシにはなったが、江戸時代では農村の後継以外の男児が江戸の街に奉公に出されたことで江戸の男女比はなんと2対1にまで偏ってしもうた。
男が女の倍いる環境故に家格や名誉ですぐれるもの以外は結婚できぬ状態であったのじゃ。
武家の暮らし
共働きが当たり前で、男女の役割にほとんど違いがなかった民とは対照的に、大きく役割が異なっていたのが武家である。
家は男子が継ぐのが基本で、奥方は家の取りまとめを中心としておった。
先に書いた記事にて紹介致したが、毛利元就殿とその奥方・妙玖(みょうきゅう)殿は戦国時代の夫婦の理想系であった。
元就殿の書いた文に「夫が外を、妻が内を治めるもの」とあるように、
主君は敵対勢力と戦や従属する勢力へ外交を行い、奥方が家中への指示や取りまとめを行うのが基本であった。
無論、家中での発言力も強く、その意向は政に大きな影響を与えた。
その代表格として、天下人豊臣秀吉の正室・北政所(きたのまんどころ)様について紹介いたそう。
天下人の妻・おね殿の暮らし
北政所ことおね殿は秀吉の身分が低かった時代からそばで支え、その出世を後押しして参った。
秀吉が長浜城主となった折には、信長様に従い各地を転戦する秀吉に代わって城代のような役割を担い、秀吉が天下人関白となってからは関白や摂政の正室の敬称である北政所と称されて、配下の大名や民からも敬われたのじゃ。
関白夫人として朝廷への取次や交渉役を一任されたほか、各大名の人質の監視と世話もされておった。
じゃが、ともに身分の低い生まれもあってよく冗談を言い合い、口喧嘩もしておったことから天下人にもかかわらず田舎の農民のような夫婦であると周りからは思われておった。
秀吉亡き後は幼き秀頼様の後見人として影響力を強め、武断派の諸将による石田三成襲撃事件の折には徳川家康殿と共に仲裁をなされておる。
じゃが、このことは「北政所は徳川家康を支持した」と捉えられ、徳川家の発言力が増すことにもつながってしもうたのじゃ。
関ヶ原の戦いには大きな動きを見せず大局を見守っておったのじゃが、東軍で功をあげた黒田長政や福島正則はおね殿が幼き頃から面倒を見ていた間柄であった為、もしこの時期の徳川家の専横に対して物申しておったら結末は変わっておったのではなかろうか。
その後は大阪を退いて余生を過ごし、大坂の陣にて豊臣家が滅びたのも静観しておられた。
じゃが、徳川を恨むどころか二代将軍徳川秀忠殿がおね殿の屋敷を訪れるなど関係は良好であったそうじゃ。
秀頼の実母で豊臣家の事実上の当主であった淀様は徳川殿と対立し豊臣側についた諸将を積極的に動かしておったで、対照的な立ち回りであったといえよう。
戦国に活躍せしは男のみにあらず!
おね殿は日課として城下町を練り歩き、民と交流して不満や民が必要としていることを理解し、それを内政に取り入れることもしておった。そして様々な本を読むことも大切な仕事であった。他家との交流を深める折に必須となる教養は本からも多く得られるからな。
男女で役割は異なるが、共に重要な働きをしておったことがわかるであろう。
他にも、女子といえど武家の誇りとして槍や刀、弓の鍛錬も欠かすことはなかった。
戦に出る者も決して少なくはなく、武名を轟かした姫も多くおる。信長様に「比類なき前代未聞の働き」といわしめた武田家の家臣諏訪はな姫や、戦国随一の戦上手である島津家を16回撃退した妙林尼。
女武者の代表格である立花誾千代(ぎんちよ)殿は、敵として対峙した加藤清正が誾千代殿を恐れて軍の進路を変えるなど一軍の将としての器は天下有数であった!!
農民たちの女子に関してはさらに多くのものが参陣しておって、戦場に女兵がいるのは当たり前であったのじゃ。
ちなみに、戦国時代では女子の当主は少なかったが、武家の世をつくられた源頼朝様は多くの女地頭を任命しておって、自身が養母である比企尼に命を助けられたこともあってか男女同権に近しい考え方をされておったようじゃ。
公家の子女の生活とは
ここまで民や武家の暮らしを紹介致したが、公家はいかなる暮らしをしておったのか気になったものもおるのではないか。
始めにも触れたが、今期の大河でも触れられておる通り、平安時代は公家が隆盛を極め絢爛たる暮らしをしておった。この安定と平和が源氏物語や枕草子などといった著名なる文学を多く生み出したわけじゃ。
じゃが、戦国時代の公家衆の暮らしは平安の頃のように豊かなものではなかった。
戦国時代のきっかけともなった応仁の乱の影響で京の都は荒廃し、京都にあった御所も廃れておったのが現状であった。
帝をはじめ都近くの自らの屋敷で暮らしておる方々も居れば、地方に下って力ある戦国大名の庇護を受けるものも少なくなかった。
朝廷も貧しさ故に宮中行事を執り行う余裕もなく、天皇の即位式すらも延期せざるを得ない状況であったのじゃ。
そしてそれを救ったのが織田信長様であるわけじゃ!
荒廃した都を整備し直し、朝廷にも多くの貢物をして宮中行事を復活なさった他、京の治安維持にも力を入れておられた。
故に、信長様は京の民から大いに慕われて「この時代に生まれてよかった」とこぼすものもおったほどであった。
信長様によって復興した朝廷は、その後も秀吉や徳川殿の支援を受けて権威やかつての生活を取り戻していくこととなったのじゃ。
男女の死生観の違いについて
最後に、武士は戦場に散るが花とされておった時代に女子はどのように考えておったのか。
これについて話して参る。
我らの時代に死生観が現れる辞世の句から紹介いたそう。
先ずは信長様に滅ぼされた名門・別所家からじゃ。
別所家は秀吉軍に攻められた後に城兵の助命と引き換えに開城し一族で命を絶った。
その折の当主・別所長治殿の句がこれじゃ。
『今はただ 恨みもあらじ 諸人の 代わりとなりし 我が身思えば』
民たちの命と引き換えとなると思えばもう恨むこともないと己の無念と引き換えに民を守ることができたことを喜ぶ悲しくも前向きであろうとする姿勢が美しい句である。これに対し長治殿の正室・照子殿の辞世が
『もろともに 消え果つるこそ 嬉しけれ 後れ先立つ 習いなる世に』
である。大切な家族を残し死んでしもうたり、あるいは先立たれたりが常であるこの世で一緒に死ぬことができるのはうれしいことであるという意味じゃ。
悲しきことながら、前向きでいようとする姿が長治殿と似通っておる。
戦国の乱世に生きるが故に、家や家族を守らんとする志は男女共通のこと。武家においては戦い方こそ違ってはおるが思いは同じくしておったのである。
ちなみに儂の感じ方ではあるが、辞世の句に関して申せば女子の方が今が散り時であると割り切った心情を歌った句が多いような印象である。
終いに
此度の戦国がたりはいかがであったか。
女子の生活や生き方について触れて参ったが、此度は紹介できなんだ話が数多ある。
家を捨て武田勝頼殿と最後を共にした北条夫人や、悲劇の死を遂げた駒姫。
お市様や淀様の乱世に翻弄されたその生涯も皆に知ってほしいところである。
無論、儂の妻・まつも戦国随一の良妻賢母、此度の話で姫たちの話が気になったものはいろいろな話を見てみるが良い。
これよりも歴史のおもしろき話を届けて参るでな。
次の戦国がたりで会おうではないか!
それではまた会おう。
さらばじゃ!!
写真・文=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)