それはかつて誰かが何かの目的でここに立てたはずなのに、雨風や紫外線の影響で塗料が落ちたり印刷が褪せたりして文字が消えてしまった看板。看板は読めなくては意味がない。無意味な存在、ナンセンスの塊がここに立っている。

英語では黙っていることをsilent(沈黙)やquiet(静か)のほかにsay nothingと表現したりもする。直訳すると「無を言う」、すなわち無言のこと。

文字のない白い看板を見ていたら、ふとこれをsay nothing boardと呼んだらどうかと思いついた。日本語にすると「無言板」。昔よく駅の改札口にあった「伝言板」と字面も似ていて好対照ではないか。

Unnamed apartment《名無しのマンション》

ものは名付けられて初めてその存在を主張し始める。不思議なもので「無言板」と心の中で名付けてみたその日から、近所のあちこちや駅までの道すがら、そして初めて歩く土地でもすぐにその姿を見つけられるようになった。

何の役にも立たない能力だが、路地に野良猫との出会いがあるように、街中に無言板との出合いがあると思えば目的地もない散歩も何か新しい可能性に満ちてくる。都会の片隅に潜む無言板が雑草のようにたくましく、ときとして野草のように可憐なのは、人の手や意識を離れたところで放置されているから。

本来であれば新たに文字板を作り直して付け替えたりすればいいものだが、立てた人は忙しいのか、忘れているのか、ほかにも事情があるのかもしれない。

とにかく無言板は当初の目的である指示や警告や注意喚起の役から解かれ、ただ無地の板切れとしてそこに存在している。

かつて赤瀬川原平が街中の役に立たない無用のオブジェを「超芸術トマソン」と名付けて発見したのにならえば、無言板も実用性のない「純粋な物体」としてここに存在している。民藝の提唱者・柳宗悦は「用の美」を説いたが、芸術とはそもそも「無用の美」なのである。

文・写真=楠見 清

散歩の途中でふと目に入ったこの看板。真っ白な板がすっくと支柱で直立している。文字は雨風に洗い流されたのかすっかり消えてしまい、もはや何が書かれていたのかさっぱり読めない。公園の入り口にある状況から見て、何か注意書きがあったのだろうが、今はその力もなくただひっそりとそこにある。