解体予定から一転したストーリー

谷根千エリアに興味があれば、必ずやその名を聞いたことがあるのではないだろうか。ご存じない方のためにおさらいしておくと、『HAGISO』は「萩寺」という愛称で知られる宗林寺の隣にある施設。もとは1955年築の「萩荘」というアパートで、芸大生たちがアトリエ兼シェアハウスとして使っていた。

黒い外壁がシックで目を引く。
黒い外壁がシックで目を引く。

2011年の震災の後、老朽化のため解体されることが決まり、別れを惜しんだ元住民が中心となって「ハギエンナーレ」というアートイベントを開催。これが予想を超えた大盛況になり、「萩荘」の運命を変えることになる。

「その様子を見ていた大家さんが、ポロっと『壊しちゃうの、もったいないかも……』って呟いていて。それを聞き逃さなかったのが夫です」と笑うのは、『HAGISO』の取締役として当初から携わる顧 彬彬(こ ぴんぴん)さん。夫というのは、同じく『HAGISO』の代表を務める宮崎晃吉さんのことだ。

「イベントでは、住んでいる人以外の人も大勢集まって隅々まで楽しんでくれていたので、大家さんも見方が変わったみたいです」

宮崎さんと顧さんは、費用について勉強し事業計画を作成。取り壊してマンションや駐車場にした場合、リノベーションしてカフェにした場合……複数の選択肢を考えた結果、「地域の人が集える場所にしたい」という思いから、最小文化複合施設として生まれ変わらせることが決まったのだ。

そうして2013年に『HAGISO』がオープンしたものの、最初から順風満帆ではなかったという。

「最初の1~2年は平日のお客さんが少なかったんです。もともとつながりがあったのは芸大やアート関係の人が多かったこともあり、なかなか地域に浸透していないという感覚でした。そのため、地域の人をどう取り込んでいくかだけではなく、自分たちが地域にどう出ていくかをすごく考えていましたね」

地元の人にもアプローチすべく、町会へ挨拶に行ったり、近所の人と会って相談したり、他の飲食店やお祭りにも顔を出したり……と、積極的にコミュニケーションをとるようにしたという。すっかり街の顔となった印象のある『HAGISO』だが、それだけの試行錯誤を重ねて今の姿があるのだ。

いつどんな時に来ても、食べたいものがある

そんな『HAGISO』の1階部分に『HAGI CAFE』はある。店内の片側は2階部分まで吹き抜けになっていて窓の光が差し込むギャラリースペース『HAGI ART』、もう片側がカフェの客席。カフェの方は床が一段高くなっていて、ギャラリーの作品やステージをちょうどいい角度で見られる。

「ギャラリーの方は、企画によっても変化して風景が更新されていく空間。一方カフェの方は、ずっと変わらないメニューがあって時間が蓄積していくイメージです。オープンから10年、ちょっとずつ手を入れたり直していて、住みながら更新していくような感覚に近いですね」

サバサンド980円。
サバサンド980円。

カフェのメニューはバラエティ豊かで、食材で日本をめぐる定食「旅する朝食」のほか、カレーやスイーツ、アルコールにおつまみまでよりどりみどりだ。

「カフェはいろんな目的で来る場所。さまざまなシーンを想定して、どんな気分の時でも食べたいものがあるように、このラインナップにしています」

HAGISOブレンド630円。コースターは、シェアハウス時代の靴箱の端材から作ったものだとか!
HAGISOブレンド630円。コースターは、シェアハウス時代の靴箱の端材から作ったものだとか!

この日は、オープン当初からある定番メニューのサバサンドとブレンドコーヒーをいただいた。カリッと焼き上げたサバに、塩漬けレモンとマスタードがアクセントになった一品。1枚のトーストをポケット状に切ってサバを挟んであり、テイクアウトでも食べやすいのがポイントだ。一杯ずつハンドドリップで淹れるオリジナルブレンドと一緒に味わえば、手軽なのに大満足!

人が出会い、可能性が広がる拠点

「シェアハウス時代から、いろんな人が集まる場所だったんです。その縁がまたなにかにつながることも多くて、この建物自体がそういうポテンシャルがあるんだなと思います」と顧さん。

先述のギャラリースペース『HAGI ART』は、展示会のほかに音楽やパフォーマンスなどの公演イベントの開催も多い。取材時はちょうど「ハギマス2023 XMAS日めくりステージ」と題したステージの準備中。街の人が楽器演奏や身体表現、朗読などを披露するもので、どんな舞台かは幕が開くまでのお楽しみ! ギャラリーと聞くと普段あまり縁のない人は入りづらさがあるかもしれないが、こうしてカフェと一体になった柔軟かつ開かれた空間なら気兼ねなく覗いてみることができる。

「美術館やコンサートホールではない、カフェみたいな場所で文化的な活動が行われていて、子供からお年寄りまで日常的に体験できる。そんな場所にしたいですね」

ギャラリースペースに座る顧さん。
ギャラリースペースに座る顧さん。

また、オープン当時はギャラリーといえばコマーシャルギャラリーかレンタルギャラリーしかなかった頃。「いわゆるオルタナティブスペースのようなものは、吉祥寺の『Ongoing』くらい。いろんな出来事を受け入れる器という概念はあまりなかったと思います」と顧さんも話すように、リノベ建築をフレキシブルに活用したパイオニア的存在でもある。

2015年には街全体をひとつのホテルに見立てた宿泊施設『hanare』、2017年に食の郵便やさん『TAYORI』、2022年にジェラート屋さん『asatte』がオープンするなど、谷根千の街にどんどん広がっているHAGISOのプロジェクト。今後は、地域の教育の場にも出ていきたいという。

「子供の時って、将来なりたいものがケーキ屋さんならそれひとつですが、実際は誰かと力を合わせることでその夢がもっと大きくなったり可能性が広がったりする。飲食業だけでなく設計業も宿泊業もやっている私たちだからこそ『そういう働き方があるんだ』『こういう仕事を“作る”ことができるんだ』っていうのを街の子供たちに伝えられたらいいなと思っています」

2023年に10周年を迎え、さらに先を見据える『HAGISO』。谷中の一角にあって、これからさらに街を豊かにしてくれるに違いない。

『HAGI CAFE』店舗詳細

住所:東京都台東区谷中3-10-25/営業時間:8:00〜10:00LO、12:00〜16:00LO(土・日・祝は〜19:00LO)/定休日:不定/アクセス:JR日暮里駅、地下鉄千代田線千駄木駅から徒歩5分

取材・文・撮影=中村こより