豊臣秀吉
『つゆとおち つゆときえにし わがみかな なにはのことも ゆめのまたゆめ』
詳しい意味は分からずとも、侘しさを感じ取れるであろう。初めに紹介致すこの句は、天下人・豊臣秀吉の辞世の句である。
露のように儚くうまれ、そして儚く死んでいく。
浪速、即ち大阪での華やかなる生活も今となってはゆめのようにおぼろげなものである。
とまさに無常を表現した一句じゃな。
『なには』は大阪を指す他にも、「あらゆること」という意味も含んでおって、すべてのことは夢のようにおぼろげであるという意味も重なっておる。
農民の出ながら劇的な出世を遂げ、天下を統べるまでになった者が、そして何よりもあの派手好きな秀吉の辞世がこれほどに侘しい句であることを不思議に感じた者もおるのではないか?
成り上がるべく信長様の元では様々な戦で手柄を立て、本能寺の後の後継争いでは多くの強敵を退け、今まで誰も成し遂げなかった天下統一を一代にて成し遂げた。
栄華を極めたその激しい日々とは対照的に、皆に惜しまれながら安全な床の上で天下人として生涯を終えた秀吉は、これまでの怒涛の日々を思い返して、夢のようであったとそう思うたのかも知らんな。
このように最期に心のうちが曝け出されるのも、辞世の句ならではじゃ。
因みに我らは詩を読む折に雅号、現世でいうところのペンネームを使っておっての。
秀吉の雅号は何故か「まつ」である。
儂(わし)としては少しばかりひっかかるのじゃが、この句にもその名が添えられておったそうじゃ。
石田三成
続いて紹介致すのは石田三成が遺した句。
生真面目で死の間際までもその気力を絶やさなかった三成、処刑の前に渡された柿を体に悪いからと断り、今から死ぬのに体の心配をしてどうすると馬鹿にされた折に「志を持つ者は、最期まで己が体を大切にする者だ」と返した逸話は有名であろう。
そんな三成はいかなる句を遺したのであろうか、早速見て参ろうでは無いか。
『筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり』
筑摩江とは三成が治めた琵琶湖にある入江である。そこに灯るかがり火が朝になると消されることに、自らを重ねた句となっておる。
徳川殿を相手取り天下分け目の戦いに破れて散った三成らしい、潔さを感じられる句じゃな。
そしてこれは現世の推察でもあるが、ちくまえは秀吉が長く名乗っていた筑前のことを指し、自らの死とともに豊臣政権も命運が尽きるとの意味を込めたとも言われておる。
この句は三成の文才と、最期まで豊臣家を思い惜しんで死んでいったことがわかるものとなっておるわな。
三成をはじめとして、やはり戦さ場で散った武士は儚くも美しい生き様が辞世の句に現れる。
皆も壮絶なる死に様を見せた武士の辞世の句には心打たれる者が多くあるで、興味あるものは調べてみるが良い!
本多忠勝
儚き句が続いたが、次に紹介致すのは本多忠勝殿である!
東国無双、天下無敵、戦国最強とも呼ばれたこの男。儂も槍を振るう身として、そして信長様と儂の関係と、家康殿と忠勝殿の関係が似通っておることからも好敵手として見ておった武士じゃ!
そんな無骨、武断が似合う忠勝殿はいかなる句を遺したのか、見て参ろうでは無いか。
『死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深き御恩の 君を思えば』
…
……
解説不要であるな!!
主君のためにまだ死にたく無い。
忠勝殿の徳川殿への忠義とその執念を感じる良い句である。
比喩や言葉の意味を重ねた文学にたける者の句も良いが、これもまたこの上なく思いが伝わる名句であろう!
そして忠勝殿は老い、死が迫っても気概は若くあり続けたことを示す句でもあるわな。
徳川家康
最後に紹介するはやはり、徳川家康殿である。
『先に行く あとに残るも 同じこと 連れていけぬを 分かれとぞ思う』
別れを惜しみながらも、家臣にこののちの事を託した句であるのがわかるわな。然りながら、この句は長きにわたる江戸幕府において重要なる遺言、掟でもあった。
何故かと申せば、これは殉死の禁止を意味したからじゃ。
我ら武士は戦にて命がけで功を立てることで主君への忠義を示しておった。
太平の世となり戦がなくなると、内政や外交で主君を大いに助けることはできるのじゃが、戦での功という分かりやすい忠義の示し方が出来なくなってしもうたのじゃ。
そこで己が忠義を世に示すために、主君の死に際し腹を切って後を追う、殉死を行う者たちが現れたのじゃ。
確かに我らの時代には、主君が戦で討ち死にした折には重臣が後を追う殉死の風習があった。
じゃが、病での死に殉ずるようになったのは江戸時代のはじめからの風習である。
戦での大敗、あるいは滅亡に際して行う殉死ならばともかく、病での死に殉じてしもうては有能なる人材をいたずらに失うこととなる。殉死するほどに長く仕えた重臣ならば尚更である。
この殉死は流行りとなって戦で功を立てる代わりに死に花を咲かす機会として広まってしまったのじゃ。
徳川殿の四男忠吉殿や、次男の結城秀康殿が亡くなった折にいく人もの家臣が殉死したことに、家康殿は「無駄死に相違ない」と激しく怒り、殉死をやめるようにと秀康殿の家臣団に手紙を出しておる。
主君のことを思うならば、生きてその後継を支えよと徳川殿はお考えになったわけじゃな。
そして家康殿は自身の死が近づいたときに、改め自らに殉じることが無いようにこの句を遺したのであろう。
この句からは、殉死しようとする心意気は認めつつも寂しいがここで別れようと、家臣思いな家康殿の人柄がにじみ出ておるように儂は感じるわな!
前田利家
因みに儂は遺言は遺したが、辞世の句は遺しておらぬ。
理由は明白、まだまだ死ぬつもりがなかったからじゃ!!!!
秀吉死後やらんといかんことが山と残っておったでな、死ぬ準備をするは気が老いたる証拠と思うておったのじゃ。
まあ力及ばんかったがな!
わしの死後に天下が大きく揺らぐことは明白であった為、遺言は嫡男利長と次男の利政に、この後如何なる動きをするべしかを書き残した次第である。
二人には個別の相続をし、
共に手を取って国を守ること、
才のある家臣であった篠原一孝を重用すること、
利長は三年大阪にとどまること、
万が一利長に危険が迫った折には利政が軍を指揮し大阪に登り利長を助けること、
新参よりも古くからの家臣を大切にすべきこと、
そして、最後に伝えたのがいくさの心得である。
それは決して我が領内で戦をしないこと。
領内での戦は勝ったところで得るものが少なく疲弊が残るのみ、故に戦になるなら領外に出て戦うべしと残したのじゃ。
これは信長様が大切にしておったことで、信長様に倣(なら)えと伝えたかった次第である。
やはりわしにとっては信長様こそが主君であり、その敬愛は本能寺から時が流れた死の間際にも、強く残っておったのじゃ。
終いに
さて、此度の戦国がたり、そして『どうする家康』はいかがであったかな!
幼きときには人質として、若き頃には小大名として苦労なされ、自らでの治世に挫折し信長様の下についた後には難敵・武田を討ち滅ぼすことが叶った。
信長様の死後には再び大名として覇を目指すが、時代を読み秀吉の天下を受け入れ、秀吉の死後に蓄えてきた力を以って一気に天下人となった。
まさに波乱万丈なる人生を一年をかけて辿ってきたわな。
儂は一度は敵として渡り合った間柄、言いにくいのじゃが、徳川殿がこの日の本に与えた恩恵はやはり計り知れんものがあると思うておる。
260年続いた太平の世、世界の歴史を見てもこれほどに平和が長く続いたのは江戸時代が唯一であり、もはや異様とすら言えるであろう。この平和な時代を徳川殿が目指しておったのか、それとも徳川の天下を推し進めた副産物であったのかは徳川殿のみぞ知るところではあるが、偉業と呼ぶ他なかろうな。
じゃが始めにも話した通り、此度の大河では忍耐力や強さだけにあらず、徳川殿の弱さや頼りなさなど、これまでに描かれなかった姿を多く見ることができたと思う。
ただこれは徳川殿のみにあらず、あらゆる者たちに言えること。
これを機に歴史に興味を待ったというものは、様々な視点で歴史を覗けば新たな楽しみが見つけられるであろう!
そして儂、前田利家は来年も引き続いて歴史のおもしろき話をこの戦国がたりにて紹介して参る所存である!
引き続き楽しみに待っておるが良い!
して、我ら名古屋おもてなし武将隊は名古屋城が本拠とし、毎日いずれかの武将が城内にて皆を待っておる!
これを読んでおる皆が名古屋城に来ることがあったらば、儂の戦国がたりを読んでおると伝えてくれたら誠にうれしく思うぞ!
それでは皆の衆、次の戦国がたりにて待っておる!
さらばじゃ!!
文・写真=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)