【梟雄の息子、宇喜多秀家】

此度紹介する一人目は宇喜多秀家である!!

ちぃと歴史を学んできたものや、大河ドラマを見ておるものは知っておる名かのう。あるいは五大老の一人であった秀家の名を、学校の歴史の授業で暗記だけしたと言う者もおるやもしれぬ。

名前以外の知名度が低い宇喜多秀家であるが、五大老として豊臣政権の中核を担った他に、関ヶ原の戦いにおいては西軍の実質的な大将を務めるなど、重要人物であったのじゃ!!

そんな秀家の生涯を紹介いたそう。

秀家は中国地方の豪族、宇喜多家の当主・宇喜多直家殿の子として生まれるのじゃが、この父・直家殿は誠に曲者で、日本三大梟雄(きょうゆう)の一人にも数えられるほどの謀将である。

宇喜多家を守るために仕えておった浦上家を二度も裏切って滅亡に追い込み、自らが生き残るために幾つもの家に仕えては離反してを繰り返しながら戦国乱世を乗り切った直家殿は、最終的に信長様に従い毛利攻めにて重要な役割を果たしておる。

時には親族を暗殺するほどの謀将ぶりを見せた直家殿とは対照的に、秀家は仁を愛し不義を嫌う真っ直ぐで模範的な武将として成長し、その好青年ぶりは現世で貴公子とあだ名されるほどである。

これは家を守るべく手を汚し信用ならぬ者と呼ばれた己のような道を、我が子に歩ませないように願った直家殿の教育の賜物ではないかと儂は思うておる。

1581年に直家殿が亡くなると、秀家は10歳の若さで当主となった。

秀家と前田家の縁

岐阜県の『関ケ原古戦場記念館』で撮影したものじゃ。
岐阜県の『関ケ原古戦場記念館』で撮影したものじゃ。

叔父の忠家殿や重臣戸川秀安殿らに支えられながら、本能寺の変による中国地方の混乱も乗り越え、宇喜多家は美作備前を治める大名へと成り上がることが叶った。

本能寺の戦いの後におきた後継争いの最中も毛利家へ睨みを利かせ続け、秀吉の賤ヶ岳の戦いの勝利に大きく貢献するなど秀吉にとってはなくてはならない存在となったのじゃ。

秀家を気に入った秀吉は、秀家を養子とした上で秀吉の養女である豪(ごう)を正室とし婚姻関係も結んだのじゃが。

何を隠そう、この豪は儂の娘なのじゃ!

子宝に恵まれんかった秀吉に、儂とまつの四女である豪を養子に出したのじゃが、豪の利発な性格もあって秀吉はえらく可愛がっておった。

そんな豪を嫁がせるほどに宇喜多家は大切な存在であったと言えよう。

豪を通じた縁で前田家と宇喜多家も仲が良くてな、五大老の中でも徳川・上杉・毛利の外様を牽制する存在として密に連絡を取り合っておったのじゃ。秀家から、豪の散財が激しく困っているので父である儂から注意してやって欲しいと頼まれたこともあったわな。

ちと話が逸れたが、秀家は紀州、九州、小田原征伐で功をあげ57万石の大名となった。27歳の若さで五大老となった秀家は五大老唯一の豊臣一門衆として一回りも二回りも歳が上の他の五大老と対等に渡り合い、秀家と共に豊臣の世を守っておった儂が死んだ後も粉骨砕身の活躍を見せていたのじゃが、そんな宇喜多家を揺るがす、否、日ノ本を揺るがしたとすら言える大きな事件が起こった。

お家騒動勃発

それが『宇喜多家騒動』である。

宇喜多家の重臣であった戸川、岡の両家が、同じく重臣の中村家の追放を秀家に迫ったことから宇喜多家は二つに割れ、その勢力を大きく損なうこととなったのじゃ。

この騒動の原因となったのは、秀吉による異国への外征の負担や課税によって不満が募っていたことに加えて、秀吉死後に秀家が領国に帰れなかったこと。そして、新参の家臣である中村家を重用したことに対する古参の家臣による反感が引き金となった次第である。

この中村家は豪の従者として前田家から宇喜多家へと送られた者。それゆえ秀家としても無碍にはできなかったことに加え、意に沿わぬものを武力を持って排斥しようとする古参の家臣たちを、秀家が許せなかったことも騒動が大きくなった理由の一つであろう。秀家は筋が通らぬことが嫌いであったからな。

五大老を務める家に起きた大騒動とあっては他の大名たちも放っては置けず、この騒動を止めるために大谷吉継や、徳川四天王・榊原康政殿も奔走しておった。

康政殿に関しては親身に対応するがあまり、宇喜多家に身を入れすぎて自国の支配が滞ったために徳川殿に叱責を受けるほどであった。

この騒動は、中村家は逃亡し前田家に匿われ、騒動の中心であった戸川家が徳川家にて謹慎することで一応の収束をみたのじゃが、宇喜多家は重臣格の半数以上を失うこととなった。

関ヶ原の戦いと宇喜多家

そんな中起こったのが天下分け目の大戦、関ヶ原の戦い。

宇喜多家は先の騒動で大きな動きはできないかと思われたが、なんと秀家は確と家を立て直し西軍に着き、1万7千の大軍を動かすことに成功したのじゃ!これは関ヶ原における西軍の勢力のおよそ半分にあたる数。秀家の兵がなければ戦いにすらならないほどの戦力差であろう。

戦の結果はもはや語るまでもないが、秀家の隊は迫りくる東軍勢力を何度も押し返し、戦の始めは西軍有利に戦を進めるなど若き才を存分に発揮しておったと聞く。

豊臣随一の武将・福島正則、徳川随一の武将・井伊直政を相手取って対等に渡り合った様は見事の一言である。

成長してさらに良き武士となった秀家の姿も見てみたかったと思わずにいられぬ名将ぶりであるな。

 

じゃがなんとか家を建て直したとはいえ、先の騒動がなければ勝手知ったる重臣たちのもとさらに多くの兵を動員できておったであろう。そうなれば秀家の勢力を恐れて西軍に味方する武将も出ていたやもしれぬ。

そういった意味でも宇喜多家騒動は日ノ本の行末を揺るがす大きな出来事であったといえよう。

 

戦に敗れた秀家は落ち延びて一時島津の元へ身を寄せるが、島津家も匿いきれなくなった為に徳川殿のもとへ出頭。

徳川家中では西軍の実質の大将であった秀家を処刑するべしとの声が出るも、島津家と我が前田家、そしてまつによる助命嘆願が叶って八丈島へ流されることとなり、八丈島では前田家からの援助を受けながらも緩やかな人生を送ったと聞いておる。

32歳で八丈島へ流されてから50年以上の余生を過ごし、関ヶ原の戦いに参陣した最後の武将として84歳まで生きた秀家は現世でも島の象徴として愛されておる。

因みに、八丈島の方言には秀家の影響からか出身地である岡山との共通点が多くみられるそうじゃ!

八丈島には秀家と豪の像もあると聞く、もし訪れる機会があれば是非とも立ち寄ってみて欲しい。

【天下人が目をかけた武将、蒲生氏郷】

続いて紹介致すは蒲生氏郷、儂が思うに戦国時代において最も実績と知名度が釣り合っていない武将である!

氏郷は3人の天下人に気に入られ、「もしも死んでいなかったら」論争の筆頭に立つものじゃ!

文武両道はこの者(あるいは細川忠興)の為にある言葉と言っても過言ではない!

蒲生家は畿内を治めた六角家の家臣の家柄、信長様が足利義昭様を将軍に据える為に、上洛を阻む六角家を倒した折に家臣となった。

その折に信長様はまだ幼かった氏郷を一目見て、この子は麒麟児、即ち天才であるとそう直感なされ、なんと信長様の次女・相応院様と氏郷を縁組なされたのじゃ!

織田家と氏郷

信長様の期待通り、成長とともにその才覚を発揮した氏郷は、柴田勝家様のもとで儂らとともに北陸攻めに加わったほか、長篠や伊勢長島など主要な戦でも武功を挙げ、若き猛将として織田家を支えることとなる。

そして氏郷が殊更に大きな功を立てたのが、本能寺の変が起きた折のことであった。

氏郷は本能寺の変が起こると知るや、安土城内におった父・賢秀(かたひで)殿と連絡をとり、信長様のご家族を含む一族を無事に助け出すことに成功し本領にて匿ったのじゃ!

明智勢の動きの速さを考えると、氏郷の助けがなくば織田家の方々は光秀の手にかかっていたやもしれん。

織田家の血筋は氏郷の迅速なる動きと判断力によって守られたのである。

その後に氏郷は時流を読んで秀吉につき、賤ヶ岳や小牧・長久手の戦いでも武功を挙げ、その後の天下統一への戦でも常に一線で活躍し続けた。

氏郷の戦いぶりは誠に見事で、大きな兵を束ねる立場になってからも常に最前線に立ちつづけたことから、家臣からの信頼も非常に厚かった。

新しき兵たちには、「銀の鯰尾の兜を被った兵を見つけたら、そのものに負けぬように戦え」と鼓舞し、その兵は戦の後にその兜をかぶっておる者こそ氏郷自身であったと気付いたという粋な逸話も残っておるぞ!

氏郷は築城にも才を発揮し、伊勢を治めておった折に築いた松坂城は石垣が優美なことで現世でも城好き達に愛されておる。

会津若松にある鶴ヶ城は、氏郷が鶴とゆかり深いことから名付けられておる!
会津若松にある鶴ヶ城は、氏郷が鶴とゆかり深いことから名付けられておる!

秀吉からの信頼と警戒

そして小田原征伐でも功を立てた氏郷は、大きく加増を受けて会津へと移封される。

ここに、秀吉からの信頼が見て取れるのじゃ!

会津といえば、北には従属したばかりの野心家、伊達家がおるし、南には最大の勢力を誇る徳川殿がおった。

 

この両家を牽制し、万が一謀反を起こした折には足止めをする。そんな重要な役目を秀吉は氏郷に任せたのであった。

これは豊臣家臣団の筆頭格としての立場を氏郷に与えたことを意味する。

氏郷の与えられた石高は92万石、当時の我が前田家76万石を優に超え外様大名と合わせても、徳川・毛利に次ぐ第三位の大大名であったわけじゃ。

じゃが、氏郷にしてみれば決してうれしいだけのことではなかった。重要なる役目を果たせるのは嬉しいことなれど、どうしても秀吉から遠ざけられたとの思いが強かったと悲しんだと聞く。

これは氏郷の見当違いではなく、大きな力を持った氏郷を恐れ遠ざける意味合いもこの加増転封にはあったのじゃ。

近くに大きな勢力を置くと万が一謀反を起こされた場合対処が難しくなる。故に近くには小さな勢力を、遠くに大きな勢力をおくのは定石であった。

秀吉の懐刀として活躍した黒田官兵衛も加増とともに筑前国に飛ばされておるし、江戸時代、関東に大藩が存在しなかったのもこれが理由である。

忠義に厚い氏郷は秀吉を側で支えたかったのであろうが、氏郷のもと一丸となって動く戦国最強の家臣団は伊達や徳川を抑えうる存在であり、適材適所と言えたであろう。

事実、氏郷は秀吉の期待に応え、伊達家が先導したとされる一揆も鎮圧し伊達家を糾弾するなど与えられた役割を十分以上にこなしたのであった。

名領主でもあった氏郷と、病魔の影

氏郷は領主としても名君で、現世まで続く会津の手工芸の伝統は商業を活発化させ民の暮らしを楽にしようとした氏郷の政策が元となっておる。

他にも伊勢を治めておった折に、信長様の楽市楽座を手本とした政策を実施したことで松坂や伊勢からは大商人が多く生まれた。氏郷によって商人の町となった伊勢は江戸時代の経済を担うこととなり、伊勢の豪商の一人、三井高利は現世の有名な百貨店三越の祖として現世にも強い影響を与えておるのじゃ。

 

じゃが、若く非の打ちどころのない、この後の日ノ本の中心となっていくはずだった氏郷を病魔が襲った。

肥前名護屋にて日ノ本中の大名が集っていた最中に病に倒れたのじゃ。

これまでの戦国がたりで、儂と徳川殿は二大老として豊臣家を支えておったと紹介致したわな。氏郷が健在であれば、その一人になっておったと思うておる。

氏郷が後に養生を兼ねて上洛した折には、その重病が他の者にも明らかなほど悪化しておって、儂や徳川殿、秀吉が共に名医を探し遣わしたはいいものの回復の兆しが見えぬまま1595年に志半ばで世を去ることとなった。

豊臣政権にとっては大打撃である。

しかも蒲生家は後継が幼かったことに加え、これまでは吉と出ていた氏郷の行いが裏目に出ることとなった。

それは、氏郷が自らの直轄領をあまり持たず積極的に家臣に分け与えていたこと。氏郷の人望とカリスマがあった為に、この手法は家臣団の結束と忠誠を生む良い方向へ働いておったのじゃが、氏郷亡き後、これが蒲生家よりも家臣の方が力を持つことにつながってしもうた。

これにより家臣団が分裂、派閥争いを起こすこととなり蒲生家騒動と呼ばれ次第に問題となったのじゃ。

争いは紛糾し、秀吉は致し方なく蒲生家を取り潰そうとしたのじゃが、儂としては仲の良かった氏郷の遺した家をなんとしてでも守ってやりたかった。

そして、真面目で聡明だった氏郷の人徳あってか徳川殿もこれに大いに力を貸してくれたことによって減封処分で決着がつき、蒲生家の家は守られることとなったのじゃ。

裏があったのかもしれぬな。

じゃが、この騒動自体が不思議なものでな。

騒動の中心となった重臣は秀吉の腹心石田三成と仲が良かった。そして騒動の後も大きな罰を受けることなく、三成の友である小西家に仕官しておることや、「騒動の解決に貢献した」として上杉家が会津に移封されたことを考えると秀吉の思惑があったのでは無いかとも考えられるのじゃ。

氏郷という核を失った蒲生家に伊達や徳川を抑える力はなく、代わりに上杉家を会津へ入れるための工作では無いのかと現世では考えられているそうじゃ。

 

因みに、氏郷の長女・籍は儂の次男・利政に嫁いでおって前田家とは親族の間柄。

儂のことは高く買ってくれておって、前に紹介した徳川家と前田家の間に起きた水騒動ではいの一番に加勢に来たり、若い大名の間で秀吉の次に天下を取るのは誰かと話題となった折には前田家であろうと主張しておったりとうれしい話が残っておる。

氏郷の才や人徳をよく知る儂としては、儚く散って行った氏郷が生きておれば、いかなる天下となっていたのか。あるいは、民思いの氏郷が天下人となったらばどのような世を作ったのか。考えずにはいられぬわな。

終いに

此度は儂に深く関わる2人を紹介して参ったが、いかがであったかな。武士としても正しく美しく生きた二人の生き様を皆が知ってくれたらうれしく思う。

じゃが、この戦国がたりを終える前にもう一つ。皆はこの歌を聞いたことがあろうか。

「限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短かの 春の山風」

我ら武士は自らの死の前に詩を遺した。辞世の句と呼ばれしものじゃな。この句は戦国武将が読んだ辞世の句で最も良きものと呼ばれておる。

これを読んだ者こそが、蒲生氏郷である。

皆にわかりやすくいたすと「花は何をせずとも自然と散るものなのに、何故風は乱暴にも花を散らしてしまうのでしょうか」と自らの短い一生を花に例えて悔しさを表した詩である。

文化人としても優れ、千利休の弟子利休七哲の一人にも数えられた氏郷が、最期にみせたその才覚が現れた一句とも言えよう。

 

我ら武士は、戦で命を落としたもの、病で夢半ばに散ったもの、忠義のために己を犠牲にしたものや、裏切り者と呼ばれても家を守ろうとしたものなどそれぞれの生き様をこの辞世の句に遺しておる。

 

一年間大河ドラマ『どうする家康』とともに様々な話をしてきたこの戦国がたり。『どうする家康』の最終回も、間も無くである。故に次の戦国がたりは武士が遺した辞世の句とともに徳川殿の一生について触れて参りたいと考えておる。

楽しみにしておいてな。それでは次回の戦国がたりでも待っておるぞ!

さらばじゃ!!

文・写真=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)