居心地よく配置された席は、いつも清潔に磨かれている。「お客さんの“おいしい”という言葉がうれしくて」という店主の作る料理は、どれも心がこもっておいしい。元々なかった料理だって、お客さんに頼まれれば立派なメニューの一員となる。閉店時間はとっくに過ぎているけど、飲み終わるまで付き合ってくれる店主は、笑顔で店の外まで送ってくれる……これを最たるサービス精神と言わずして、何をサービス精神と呼ぶものか。
呑兵衛とはただ酔いたいだけではなく、そんな酒場のサービス精神を求め、夜な夜な集まって来ているのである。
福島会津若松の大衆酒場へ
「はーい、いらっしゃ~い」
初めて訪れた、福島の会津若松にある酒場『麦とろ』でのこと。相当シブい店内は広々としており、その半分を占めている厨房ではステテコパジャマのような恰好をした大将が迎えてくれた。
この広さをひとりで切り盛りしているのだろうか、店には数名の客が座っていたが、大将はそれぞれ相手をしている。小上がりも空いていたが、ここはあえて大将の近くのカウンター席に座ることにした。座ると同時に、大将が言った。
「何飲むー?」
たまにふと、思うのですよ。“酒は何を飲む?”と大将や女将さんに尋ねられると、「あぁ……今から楽しい酒場時間が始まるんだな」という、ワクワクする実感が込み上げてくる。それと同時に、スッとこの酒場の一員になったという気もする。
「瓶ビールください!」
こんなちょっとした言葉も、気配りという名のサービス精神なんじゃないかと思う。
瓶ビールは不思議だ。ここの前にも何軒か行って飲んでいるのに、瓶を持った瞬間にリセットさせてくる。喉に一筋の冷たい感覚を覚えつつ、目の前にあるメニューを見ていると、大将がにこやかに言った。
「今日は鯛がうんまいよぉ」
会津弁が心地好(よ)い。頼まない理由なんてものはなく、ふたつ……いや、5つ返事でお願いした。
やってきた「鯛刺身」を見て納得、なんという美しいお造りだ。分厚い切り身を箸で持つとズシリと重く、そのままひと口──、旨いっ! 鯛の刺身っていうのはもっと淡泊だったはずだが、これは中トロのように濃厚だ。新潟からわざわざ仕入れたものらしく、すでに大将のこだわりを感じずにはいられない。
「お兄ぢゃん、どっがら来だのぉ?」
「東京です!」
「東京ぉ? あーれ、隣のお客さんも東京だっでよぉ?」
「えっ、本当ですか!?」
酒場ではこんな偶然があるもので、たまたま先に飲(や)っていた隣のお客さんも東京から訪れたという。偶然にカンパイしつつ、次の料理がやってきた。
店名が“麦とろ”なだけにメニューには「とろろ」料理が多く、その中でもこの「とろろ海苔巻き」というのが気になっていた。とろろを海苔で巻いて揚げただけのシンプルなものだが、これが本当においしかった!
香ばしいパリパリの海苔の中から、とろろのネバッとしたコシのある弾力。火の通りの加減が絶妙で、これ以上でもこれ以下でもない見事な仕上がり。醤油など付けず、そのままでもとろろの旨味が存分に味わえる絶品だ。
「やっぱり、お店の名前にしているだけあって、とろろがおいしいですね!」
「店の名前ぇ? いーや、とろろは関係ねんだぁ」
まさかの、とろろは全く関係がなかったという。大将曰く“おいしいところ”とは何でも“トロ”の部分であり、ビールで言うところの“おいしいところ”は“麦”で『麦とろ』……これが店名の由来って、絶対に分かるわけがない。
「絶対、他の人もとろろからだと思ってますよ!」
「そうがぁい? はっはっは」
そう笑いながら大将が次に出してきたのが、会津名物「馬刺(ヒレ)」である。これはおいしそうだ。そのまま醤油をつけて食べようとすると、大将がニヤリと言った。
「辛味噌、うんめがらつけで食べれよ」
会津では馬刺しを辛味噌で食べるらしい。ほうほう、では添えてある辛味噌につけて食べて見ると……
旨すぎるっ!! これは……これは、なんたる美味だ!! やわらかくもちょうどいい歯ざわりを残し、もちろん臭みは完全にゼロ。それに大将がすすめた辛味噌との相性が抜群。ツンとした辛味にスッと品のいい甘味が混じり、この奇跡の馬肉にピッタリだ。え──……今まで食べてきた馬刺しとは、一体何だったのか……ちょっと、悔しい気分になってきた。
「本当においしいですよ!」
「そうでしょう、そうでしょう」
私の反応を見て大将は、うれしそうに頷く。それを皮切りに怒涛の“サービス精神”を繰り広げるのである。
怒涛のサービス料理!
大将は瓶から自家製の「梅干し」を取り出し、「これ食べて」とそのまま手前の皿に置いた。大粒でオリーブ色の梅は、皮表面に張りがあって、中はジュワッと果実的な甘酸っぱさだ。
間髪入れずに差し出してきたのが「饅頭天ぷら」だ。その名の通り饅頭を天ぷら粉で揚げたものなのだが、これがまた不思議なおいしさ。カリッとした衣の歯ざわりと、饅頭のモチっとした食感とあんこの甘みがちょうどいい。揚げたてのところをみると、この饅頭のサービスは端から決まっていたのだろう。
しかしナンだ、この日は朝から会津観光をしながら酒を飲んでいたので、だいぶ酔いが回ってきた。この酒場の居心地の良さも相まって、何だか瞼も重くなってきた。フラ~っとした頭で座っていると、どこからともなく声がする。
「…………お兄ぢゃん」
「……お兄ぢゃん?」
──ハッ……!!
一瞬、意識が飛んだかというところで、大将の呼ぶ声で正気に戻った。これば失礼いたしました。さて飲み直そう、とグラスに手をかけようとした瞬間……
「うわぁぁ何じゃこりゃぁぁ!?」
「はっはっは、熊の手だぁ~」
男・四十半ばにして、こんなにしっかりと悲鳴を上げたのは初めてじゃないだろうか。昔の黒電話ほどもある熊の手が、目の前にあったのだ。詳しく聞くと、大将が仕留めた“ツキノワグマ”の手で、今までに六匹仕留めたうちの一匹……いや、一手だという。まさか、これもサービス料理というのか……いや、そんなサービスなんて聞いたことがない。
いやはや、生の熊の手を酒場で初めて見ることになろうとは……最近は全国で熊被害が多発しているが、ぜひとも大将のお力を借りたいものだ。
「酒場は儲かるよぉ~」
「貯金は一億、二億なんて当たり前だぁ」
大将の話はどこまでは本当なのか冗談なのか分からないところがあったが、本当に楽しい時間だったということは紛れもない事実だ。結局、自分で頼んだ料理よりサービスでいただいた料理のほうが多かったんじゃないだろうか。穏やかな会津弁がいつまでも頭の中を巡る……夢見心地になりながら……酒場のサービス精神とはやはりこういうことだと思いつつ……徐々に私の精神も薄れると……、
気が付けばホテルまでのタクシーの車中だったという。
──次の日の朝。
二日酔いの頭を抱えつつ、ホテルの冷蔵庫を開けるとそこには“チョコパイ”がひとつ。
ははぁ……これも大将にもらったものだろうが、酔っ払ってその記憶がない。とにかく、これが熊の手じゃなくて良かったと思いつつ、今はベッドで昨夜のサービス精神の余韻にしばし浸るのであった。
取材・文・撮影=味論(酒場ナビ)