型抜き、カラオケ大会……故郷の夏祭り

故郷の村では、昔から「観音様」と呼ばれる夏祭りをやっていました。ちなみに、ご本尊の観音像を私は見たことがありません。

ご本尊を安置するお堂を囲むようにしてカーブする小道には、焼きそば、かき氷、綿あめ、リンゴあめ、金魚すくいにヨーヨー釣り、当てくじ、漬物、型抜きの露店がびっしりと並んでいたのを思い出します。

型抜きって、ご存じですか? プレート状の固くて白い砂糖菓子に、馬やゾウなど動物などをモチーフにしたミゾがつけてあって、そこを画鋲のような小さな針でチクチクとつついて、見事動物のシルエットを抜き出せたら、景品がもらえるのです。一回50円だったか、100円だったか。

綺麗に抜けたかどうかは、店のおっちゃんが判定します。ほんのわずかでもかけらがついていると「まだ仕上げが甘いな」と突き返されます。せっせと仕上げるうちに、ほとんどの場合ヒビが入ってきて、ハイ、終了。テキヤさんは百戦錬磨ですから。

日がとっぷり暮れると、狭い境内は老若男女でごった返し、肩がぶつかるほどになってきます。大人たちの目当ては、お社のとなりに設けられた舞台でのカラオケ大会。紅白幕の前に、8トラ(エイトトラック。カセット式のカラオケ機械)が置いてあり、村人が順番に歌います。相当の音量です。日頃無口な農家の親父さんが意外と美声だったり、漁師のお兄さんがプロ顔負けだったりします。ほとんどは、演歌。

女たちはというと、お堂の中にいます。小さな鉦(かね)と太鼓をたたいて、御和讃と呼ばれる念仏みたいな歌を夜通し歌い続けるのです。「宵ごもり」といって、男子禁制、女性だけのイベントでした。いま考えると奇祭だなと思いますが、働き通しで娯楽の少なかった時代には、女たちだけで愚痴をいいあったりできる楽しい夜だったのかもしれません。

忘れられないある場面

さてカラオケ大会が終わると、いよいよメインイベントの演劇がはじまります。顔を真っ白に塗ってチョンマゲのかつらをつけた男女が時代劇をやるわけです。大衆演劇ですね。国定忠治でもやっていたでしょうか。大人たちがチャンバラに夢中になっていたとき、私には、忘れられない場面があります。

10歳に満たない私は、浴衣を着て、舞台の周りを駆けまわっていました。すると、同じくらいの年頃の少女が、ほほえみながら、私に手招きしているではありませんか。追いかけると少女は参道のほうへ逃げて、立ち止まるとふりかえり、笑います。で、また手招き。繰り返しているうちにひと気のない、だいぶ暗い場所まで来てしまいました。参道は杉の木が鬱蒼(うっそう)としていて夏でも暗く、赤い提灯だけがわずかに、逃げる少女の姿を浮かび上がらせています。

顔はよく見えなかったのか、もう覚えていません。ただ、彼女も浴衣姿で、桃色の模様が入っていたのは覚えています。そして鮮烈な、真っ赤な、兵児(へこ)帯も。逃げるたびに、うさぎのしっぽのように大きくリボン結びした赤い帯が、暗がりの提灯の下にゆれます。

役者が見栄を切る声と音楽が遠くに聞こえています。ついに少年は追いつき、二人は並んでしまいました。

村では見かけない子。化粧をしているのか? 少女は、大人びた感じがしました。少年は問います。

「どこから来たの?」

「……」

少女はこたえずに、舞台のほうを指さしました。そして、

「もう明日は行っちゃうよ」

と言いました。彼女は旅してまわる、大衆演劇団の誰かの娘だったのです。化粧のわけは、少女もときには舞台に上がるからかもしれない。

ここで、私の記憶は終わりです。なにか他に話をしたか何も覚えていません。そのときの気分だけ、よく覚えています。

風景はあの頃と変わっていても

それから30余年。大人になって帰省したとき、「観音様、最近どうなの?」と母に聞いてみました。なにを言ってるの?という顔でこちらを見る母。運営する人たちの高齢化、子どもの減少もあり、とっくに「やめちゃったよ」。母はすかさず笑います。「宵ごもり、大変だったから終わってよかったわ」。しゅうとめから嫁に代々義務付けられる古めかしいイベントがなくなっても、母には社交ダンスサークルがあります。都会に出た息子の、きまぐれの感傷などに一切付き合いません。

私はなんだか不思議な気分を消したくて、あるいは、確かめたくて――観音様のあるお堂まで、散歩に出ることにしました。

子どもの頃、足元さえ見えない夜道は怖かったですが、今なら5分歩くだけ。おどろきました。鬱蒼とした杉の森は、管理が大変だったのか半分以上が伐採されてしまっていました。でも、広々とし、光がさしこむようにもなって明るい。これはこれで、アリ。

参道をもう少し進みました。男たちがマイクを握り、旅芸人たちがチャンバラをやった舞台は、シャッターが下りたままもう長く開いたことがないようでした。お堂まで来ると、そのサイズ感にまた驚く。こんな小さかったっけ。露店の並んだ、カーブのついた小道もあまりにも細く短い。私が大きくなっただけですね。

昭和はとうに終わり、なにもかも変わった淡色の風景の上に、それでも私は、揺れる兵児帯の赤さを、ありありと見いだすことができるのでした。

文=フリート横田
写真提供=Photo AC、PIXTA

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