昭和の骨董屋で見つけた、壊れ茶碗の魅力

さて、今どきめずらしい構えに惹かれ、中へ入りますと、器がいろいろ置いてあります。私は焼き物に全く知識を持っていませんが、なぜかそのひとつが目にとまり、しばらく眺めていました。

こぶりな茶碗でした。花が描いてあります。でも……壊れてるんです……。か細く、かしいだ花の茎を斜めにぶったぎるように、大きな、ひびが入ってるんですよ。器でなくて中古車だったなら、「補修歴アリ」ということで、価値が下がっちゃいますね。

ところがひびは、茶碗の上で見事な線画になっていて、むしろ価値を上げているように見えるんです。せっかく調和している全体の構図や色彩を無視して縦横に暴走しているひびなのに、割れ目が綺麗に金粉で塞いであり、不思議とアンバランスなバランスがそこにあるのです。

この金色ひび塞ぎ技法を、「金継ぎ」といいます(きんつぎ、と読みます)。ひびが入ったり欠けたりした陶磁器を、漆と金粉で継いで(補修して)、ふたたび使えるようにすることです。

安土桃山時代にはかなり行われていて、「茶の湯」の世界では、価値の高い茶器にたくさんこの技法が使われています。江戸時代に入ると、その庶民版というか親戚のような「焼き継ぎ」という補修方法も大流行しています。割れた皿や茶碗の割れ口に、鉛ガラスの粉を塗り付けて、焼いて接着します。専門の職人「焼き継ぎ師」が、七輪のような道具を担いで、街なかを修理に回るくらい普及していたようですが、陶磁器の生産量が増え、安い新品が出回るようになると、廃れていきました。明治、大正ごろにはわずかに残っていたともいいますが。

そうしてふたたび近年、「金継ぎ」が注目されているようです。日本人が持つ「もったいない」の精神が生かされている、とか、現代のサステナブルな風潮にあっている、とか言われ、自分でつくるための「金継ぎ教室」やワークショップが開かれたり、「金継ぎキット」まで売られているみたいですね。

壊れているのに惹かれる理由

「壊れているのに惹かれる」って、なんででしょうね。ちょっと考えてみますと、大きくは、ふたつのことを自分が感じていることに気付きます。

そもそも焼き物とは、土くれをこねあげて、こねる人の想定の通りに結晶させた人工物ですよね。人工物は、生み出された瞬間から、「時間」と「自然」というものとの対決をはじめます。完成形になってからは常に壊れるリスクを背負い続けるというという、時間との対決。そうしてある日、突然勝負に負け、ばりんと割れて、壊れてしまう。言い換えると、人工物はいつも、土に還りたい、自然回帰したいという誘惑にも対峙し続けているのです。

この、物自体が自然に還ろうとする力、「壊れよう」と自己消滅を願う宿命を人が断ち切り、時間にも打ち勝って――少しだけ過去へ巻き戻して――ばりんと割れた瞬間、死の瞬間を凍結した姿、このまさに「つなぎとめている美しさ」が、冒頭に書いた茶碗には確かにあったのです。これが第一。

そして第二。「荒ぶる線の美しさ」です。ひびわれの走り方は、壊れようとする自然の意志が付けた線画。人はあえてそこに抗わず、後ろから付いていって、自然の成したままの形状に沿って、キラキラと光る補修材をそっと入れています。金粉を仲立ちにして、荒ぶる自然と人は、ここで和解しています。偶然という破壊神・自然に対し、人工物の計画者である人間は、畏敬と諦めとやさしさを持って臨んでいます。無秩序な線を生かすことで、元からあった絵の控えめ具合は、より控えめになってしまっているところが、壊れ茶碗を美しくしています。

すみません……ややめんどくさい書きぶりになってしまいましたが、金継ぎしてある器を見たときの感覚を文字に移し替えるとどうしても、こんなふうになります。

極端な話、壊れる前の器よりずっと、壊れているほうに惹かれてしまいます。完全に美しいものを作ろうとしてつくったものが、壊れているのに、美しい。人の感覚って、やっぱり不思議です。

もうひとつ、どんな茶器よりも美しいもの

で、この稿を書いている途中、もうひとつ、壊れているのに美しい茶碗があったのを思い出しました。

10年ほど前、帰省したときのこと。台所で、私の親父がおしんこかなんかをおかずにして、お茶漬けをすすっていました。筋肉質の大きな手で抱えられた茶碗をふと見ると、口をつけるあたりが大きく欠けている! すかさず私は言いました。

「それ欠けてるじゃん。あぶねーから捨てたら」

親父はこちらも見ずに、

「そういうわけにいかねえんだ」

と言ってニッと笑い、欠けたフチをものともせず、またすすりだしました。

あとから母に言われ、思い出しました。その茶碗は、昔、私が父の日に贈ったものでした。カタログだったかネットかでちょちょいと探してパッと贈ったので、まったく姿も覚えておらず、自分でも気付かなかったのです。

持ち主は終生捨てず、いまはもう、使うもののいなくなったその欠け茶碗。実家に行くと静かに眠っています。なんの繕いもしてあげませんでしたが、今、実感しています。やっぱりどんな茶器よりこれが、私にとっては美しいものなのだと。

文=フリート横田
写真提供=Photo AC、PIXTA

42歳厄年を少しこえたばかりに過ぎない中年男性が昭和をテーマにしてこうやってコラムを書いておりますが、こんな私でさえ、以前はときどき、「靴磨き」の人達を見かけた記憶があります。平成の世になってもまだ、元気に従事する方々がいたということですね。大きな駅の前、往来の激しい場所に座って道具を広げ、お客を待つ職人さんたち。大抵が高齢の方々でした。それが最近、すっかりお姿をお見かけしないことに気付きました。なので今日は、その人達のことを少し書きたいと思います。商業施設の中などにも増えてきた新型のシューケアサービスのショップのことではありません。路上で商売をした歴史的存在としての「靴磨き」職人たちのことです。※写真はイメージです。
オリンピックの選手村を作るために様子がすっかり変わってしまったのですが、晴海ふ頭を歩くのが好きでした。あのあたり、戦後はまだ、ねじり鉢巻きで麻袋を担ぐたくましい男たちが荷の積み下ろしに汗を流していましたが、昭和も40年代に入ってコンテナが登場してくると、風景にさびしさが混じっていきました。同じ東京港でも、品川や大井にはガントリークレーンでどんどんと積み下ろしができる「コンテナふ頭」が生まれ、レゴブロックをはめこむように規格の揃った箱を一挙に運べる大量輸送時代へ向かっていきます。晴海ふ頭は、その波に乗り切れませんでした。
程度の強弱はあれ、昭和のころに作られたさまざまなレトロなものにご興味があるから、こうして今、本連載エッセイを読んでくださっているものと思います。そうすると、たとえば建築なら、木造のひなびたものがお好きでしょうか?いや石造りや鉄筋コンクリート造りが好きだよという方なら、昭和初期に造られたアールデコのものなどですかね。戦後、小さな商売人たちのために建てられたこんな建物はどうでしょうか?※写真はイメージです。