グッモー! 井上順です。
『白根記念渋谷区郷土博物館・文学館』は渋谷駅から徒歩約20分の住宅街にある小さな博物館。
のんびり散歩しながら向かうのもいいが、この日は渋谷駅東口から「ハチ公バス」を利用した。4つ目のバス停「郷土博物館・文学館」で降りると博物館はすぐ目の前だ。
「白根記念」とついているのは、渋谷区議会議員を5期も務めた故・白根全忠氏が渋谷区に寄贈した宅地、邸宅を利用していることから。
1974年(昭和49)に「渋谷区立白根記念郷土文化館」としてオープン。2005年(平成17)に全面改築が行われ、文学館も併設した『白根記念渋谷区郷土博物館・文学館』となった。
今回は、当館学芸員の松井圭太さんにご案内いただいた。
現代の渋谷から、古代の渋谷へ
まずは2階の「博物館」へ。時代ごとに分かれた展示ゾーンで、渋谷の歴史や人々の暮らしなどが紹介されている。
博物館展示は、zone.01「現代の渋谷像」から始まる。
1964年(昭和39)の東京オリンピック以降、渋谷は文化・情報の発信地としてさまざまな流行を生み出してきた。
「現代の渋谷像」の展示は、渋谷区内の専門学校などと共同で企画し、現代の渋谷の姿をとらえた展示を行っているそうだ。流行はどんどん変わるので、年に何度か展示内容を変えているとのこと。
今回は「渋谷・原宿の最新ファッション」がテーマ。背景は渋谷駅前のスクランブル交差点と竹下通りだね。
現代の渋谷を見たあとは、右の入り口から入り、zone.02 「五台地二十谷に生きる渋谷の人々」へ。
旧石器時代から中世までの人々の生活が出土品とともに紹介されている。
まずは、約10万年前の「ナウマンゾウ」の化石だ。
「1971年(昭和46)、地下鉄千代田線の工事のときに、原宿の神宮橋の地下21mの地点でナウマンゾウの化石が発見されました」と松井さん。
ナウマンゾウの化石はほかにも都内20カ所以上で発掘されているが、一頭分まるごと出てきたのは珍しいそうだ。
2万年前に絶滅したといわれるあのナウマンゾウが、渋谷にもいたんだね。
「その当時は日本とユーラシア大陸がつながっていたため、南アジア方面にいたナウマンゾウが 日本に渡ってきたようです。南方にいたのがナウマンゾウで、北方にいたのがマンモスです」
その後、渋谷に人類が住み始めたのは、旧石器時代。約3万年前だ。
縄文時代、スクランブル交差点は海だった!
縄文時代に入ると、渋谷の「台地」に人が集落をつくって住み始める。
なんと代々木八幡宮の境内で、1950年(昭和25)に縄文時代の住居跡が見つかったそうだ。出土した土器から約4500年前のものと推定されているとのこと。
縄文時代の初めは今より温暖で海水面が高かったので、渋谷の低地は「海」だった。
台地から海に向かっていくつもの川が流れ込み、その浸食によって、今の渋谷の地形がつくられた。
渋谷の地形は、5つの「台地」(東渋谷、西渋谷、代々木、幡ケ谷、千駄ケ谷)とその間にある約20の「谷」で形成されているという。
渋谷駅前のスクランブル交差点あたりは、まさに「谷」だね。
そういえば、昔は大雨が降ると地下街が浸水することがあって大変だった(近年、再開発工事で地下に雨水貯留施設「あめちょ」が建設され改善している)。
zone.02には、本物の縄文土器に触ったり、粘土で土器文様の製作を体験したりできるコーナーもある。お子さんの体験学習にもよさそうだ。
江戸時代~明治・大正時代の渋谷はのどかな農村だった
「そのあとは、江戸時代になるまで、渋谷の歴史に関する資料がほとんど残っていないので、詳細がよく分かっていないんです。伝説ならあるんですが」
中世の伝説といえば、金王八幡宮にあったと伝えられる「渋谷城」。金王八幡宮は僕も毎年初詣に訪れる神社だが、ここにあった渋谷氏の城が「渋谷」という地名の由来ともいわれている(諸説あり)。
zone.03 「都市として農村としての営み」から、江戸時代に入る。
「江戸城を中心につくられた江戸の街では、江戸城に近いところに藩主とその家族が住む『上屋敷』があり、その次に『中屋敷』があった。渋谷にあったのは、ほとんどが『下屋敷』。別荘や火災時の緊急避難場所として使われていたようです」
江戸時代の地図を見ると、渋谷は水田や畑が広がる「郊外の農村」だったことがわかる。
zone.04 「渋谷を巻き込んだ都市化の波」は明治時代、大正時代。
「明治維新後、武家屋敷の跡地に桑や茶を植えることを条件に貸与、払い下げするという『桑茶(くわちゃ)政策』というのがありました。松濤は、江戸時代は紀州藩徳川家の下屋敷だったのですが、元佐賀藩主の鍋島家が1876年(明治9)に茶園を開いて『松濤』というお茶を生産していたんです」
松濤という地名は、お茶の銘柄が由来だったとは。長年住んでいるのに知らなかった。
「明治になると牛乳を飲む人が増えてきたので、渋谷には牧場もたくさんできました」
写真を見ると北海道の牧場みたいな風景が広がっている。
僕も出演したNHKの朝ドラ『らんまん』でも明治時代の渋谷が描かれていたが、やはり渋谷は「田んぼと畑しかない田舎」と表現されていた。
そんな渋谷も、1909年(明治42)に陸軍の練兵場ができたり、渋谷駅を起点とした鉄道網が整備されたりして、次第に人が集まる街になっていくんだね。
「関東大震災」をきっかけに渋谷は人の集まる街に
zone.05 「ターミナル化による繁栄と戦禍からの復興」から、昭和の時代に入る。
「『同潤会代官山アパート』を再現したコーナーです。1923年(大正12)の関東大震災からの復興住宅として建設された同潤会アパートは、表参道にあったものが有名ですが、こちらは1927年(昭和2)に建てられた代官山のもの。鉄筋コンクリート造で、電気水道都市ガス、水洗トイレまで備えたモダンな集合住宅でした」
畳敷きに見えるが、実は下はコルクで、テーブルや椅子を置いてもへこまないようになっている。洋風なライフスタイルにも対応できるということだ。
これが昭和初期の最先端の住まい。新聞記者や弁護士などのインテリ層、富裕層が暮らしていたそうだ。
僕は戦後生まれだが、子供のころにこういう家をよく見かけたような気がする。大人が火鉢にキセルの灰をトントンと落としていた光景、懐かしいなあ。
この連載で以前紹介した「百軒店」も、関東大震災をきっかけにつくられた街だ。
震災後、東京は宅地の郊外化が進む。震災被害の少なかった渋谷に人が増えていくのだ。
1932年(昭和7年)10月1日、渋谷町、千駄ケ谷町、代々幡町が合併して「東京市渋谷区」が誕生した。
1934(昭和9)年には、「東横百貨店」(のちの東急百貨店 東横店東館)が開業。
1939(昭和14)年に地下鉄銀座線が渋谷まで開通すると、渋谷は郊外や都心から人が集まる「ターミナル」としての性格が強まった。
展示されている当時の写真を見ると、今の渋谷の街を予感させるような風景だ。
「ワシントンハイツ」と「東京オリンピック」が渋谷を変えた
やがて戦争、そして終戦。
「ワシントンハイツは、戦後の渋谷を語るうえで大事な存在です」
陸軍の練兵場だったところが、終戦後、米軍の将校たちの家族用宿舎が並ぶ団地「ワシントンハイツ」になった。現在の代々木公園から渋谷区役所のあたりまで、かなりの広さだ。
僕はすぐ隣の富ヶ谷の生まれだから、米軍住宅が立ち並んだワシントンハイツの光景を覚えている。戦争で焼け野原になった渋谷に広大な「アメリカの町」が出現したのだから、渋谷の人たちはとにかく驚いただろう。
「アメリカ文化の影響が、のちに渋谷の若者文化につながっていきます。ワシントンハイツがあることでアメリカの物資が街に出たり、アメリカ人向けの店もできたりしました。それがかっこいいと都会の裕福な若者たちが集まるようになった。そうすると百貨店やファッションビルができてさらに人が集まり、原宿のホコ天や竹の子族などの流行も生まれていったんです」
そしてもうひとつ、戦後の渋谷を大きく変えたのが1964年の「東京オリンピック」だという。
「ワシントンハイツが返還されて国立代々木競技場や選手村ができ、街が整備されて現在の渋谷の原型ができました」
競技会場を結ぶ国道246号線が拡幅整備され、三宅坂から渋谷までの首都高3号線も開通した。
このときに建設されたオリンピック放送センターは、のちにNHK放送センターが移転してきた。
オリンピックという国際イベントを機に渋谷の街が成長し、その後の発展につながったんだね。歴史をたどって現代のコーナーに戻ると、渋谷が「流行の発信地」となった理由がよくわかった。
三島由紀夫、平岩弓枝……渋谷区ゆかりの文学者を知る「文学館」
さて、次は地下2階の「文学館」へ。
このフロアでは、渋谷区にゆかりのある作家の作品や資料が常設展示されている。
入り口にあるのがzone.06 「渋谷の文学情報」。
「渋谷ゆかりの文学者年表」と「渋谷の文学地図」で、渋谷にはこれまでどんな文学者がいつごろどのあたりに住んでいたのか確認できる。
渋谷区にこんなにたくさんの文学者が住んでいたとは驚いた。
zone.07 「渋谷の文学散歩」は、歴史の古い順から文学者ごとに作品や手書きの原稿など貴重な資料が展示されている。
まずは一番古い国木田独歩から。
「国木田独歩の有名な『武蔵野』という作品。田舎を書いた話かと思われるかもしれませんが、実は渋谷の話なんです」
雑木林が広がる渋谷の小さな茅置(ぼうおく)に住んでいたことが書かれている。茅置とは、かやぶきの粗末な家のこと。国木田独歩は、1896年(明治29)ごろに今の渋谷区役所の裏あたりに住んでいたそうだが、現在の渋谷の風景からはなかなか想像できない。
与謝野鉄幹は、1901年(明治37)に道玄坂付近に移り住んで晶子と結婚。主宰する文芸誌『明星』の発行のほか、晶子の歌集『みだれ髪』を刊行するなど、詩歌革新を目指して熱心に文学活動を行っていた。
『田舎教師』で知られる小説家の田山花袋は、1906年(明治39)から亡くなるまで代々木に住んでいたそうだ。
詩人の北原白秋は1907年(明治40)から原宿に住んでいた。
以前この連載で紹介した百軒店の『たるや』は、戦前、北原白秋ら文学者がよく訪れていたそうだ。
「大岡昇平は子供のころ渋谷に住んでいたので、『少年』『幼年』などの作品に大正時代の渋谷の様子が詳しく書かれています」
これは読んでみたい。
画家で詩人の竹久夢二は1921年(大正10)から約4年間、宇田川町に住んでいた。この地で関東大震災を経験し、その後にできた「百軒店」にもよく足を運んでいたという。
そして、三島由紀夫が松濤に住んでいたとは知らなかった。
生まれは四谷だが、1937年(昭和12)、12歳のときに家族とともに松濤に引っ越してきたそうだ。
住まいはもう残っていないのだが、写真で見るととても洒落た洋館だ。松濤にいたのは1950年(昭和25)まで。『仮面の告白』などたくさんの小説がこの松濤の家で執筆されたことになる。
僕がとてもお世話になった平岩弓枝さんの展示もある。
「平岩先生が執筆に使っていたペンも展示してあります。万年筆ではなく、安いペンで書かれていたそうですね」
平岩さんは『御宿かわせみ』シリーズなどの小説で有名だが、TBS系で放映されたテレビドラマ『ありがとう』など脚本家としても活躍された。
僕は『ありがとう』のほかにもフジテレビの『平岩弓枝ドラマシリーズ』や舞台など、平岩さんが脚本を手掛けた作品にたくさん出演させてもらった。
平岩さんの生家は代々木八幡宮。僕の生家は富ヶ谷にあった「井上馬場」で、実はご近所さんだったのだ。代々木八幡宮は高台にあるから、平岩さんが「うちから井上馬場が見えたわよ」なんておっしゃっていたのを思い出す。
渋谷の歴史を知り、新しい魅力も発見
『白根記念渋谷区郷土博物館・文学館』の常設展示から、特に気になったところをピックアップして紹介したが、渋谷の歴史や文学に少しでも興味がある方はぜひ実際に展示物をじっくり見てほしい。
僕は渋谷の歴史を知ることで、新しい魅力もたくさん発見できた。
当館では常設展示のほかに、1階の「企画展示コーナー」で年に数回企画展が開催されている。
この日行われていたのが「ハチ公 生誕100年記念展」(2023年10月9日で終了)。ハチ公について知っているようで知らなかったことも多く、とても興味深い内容だった。
過去にも「昭和40年代の渋谷 写真展」や「同潤会アパートと渋谷」など、おもしろそうな企画展がたくさん行われていたようだが、見逃してしまったのは残念。次の企画展を楽しみに待とう。
入館料は100円(小中学生は50円、60歳以上は無料)。ぜひ気軽に立ち寄ってみてほしい。渋谷のことはよく知らねえ(白根)なんて言うあなたも、一度この博物館を訪れたら、渋谷ツウに変わること間違いなし!(笑)
ハチ公バス(恵比寿・代官山循環)「郷土博物館・文学館」下車徒歩0分
撮影=福山千草 構成=丹治亮子