「武名で家を守った」武士・土屋昌恒

まず紹介致すのは、土屋昌恒殿じゃ!

儂が生き様に惚れた武士の筆頭格である。この者は誠に、「武名によって家を守った」武士であった。

昌恒殿は武田家の家老であった金丸家に生まれる。

兄には土屋昌続殿がおって、昌続殿は武田二十四将に数えられ信玄殿から土屋の姓を賜るなど武名を誇る武士である!

昌恒殿も武に秀でた将であって、初陣の駿河侵攻では今川家重臣の岡部貞綱殿の軍を相手に首を挙げる活躍をみせた。この戦の後に武田家に降伏し武田家臣となった岡部貞綱殿は、昌恒殿の戦ぶりに感服し昌恒殿を養子に欲しいと申し出、これによって昌恒殿は貞綱殿の養子となるのじゃ!

敵方を惚れさせるは武人にとってこの上ない栄誉、いかに素晴らしき戦ぶりであったかがわかる話であるな!

そして、貞綱殿も信玄殿により土屋の姓を賜った為、土屋昌恒となるわけじゃ。

じゃがそんな中で武田家を大きく揺るがす出来事、即ち長篠の戦いが起こる。

武田家に大打撃を与えたこの戦いで、養父である貞綱殿と兄昌続殿が同時に討ち死にしてしまうのじゃ。これによって共に後継がいなかった両土屋家を昌恒殿は継ぐこととなった。

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蛇足となるが、昌続殿は長篠の戦いで随一の大活躍を見せ、三重の柵の二重までもを破って本陣に迫る戦いぶりを見せた。

儂も近くに陣を構えておったが為、戦々恐々としたことをよく覚えておる。

前に長篠探訪で紹介致した復元された馬防柵のあるあたりが昌続殿が攻め入った場所だで、これから長篠の古戦場に参るものは覚えておくが良いぞ。

『片手千人斬り』の異名

だんだんと崩れゆく武田家の中で昌恒殿は、最後の最後まで勝頼殿に忠誠を尽くした。

そして、昌恒殿の名を天下に轟かせたのは武田家最期の時であった。

織田軍の攻撃によって敗走する勝頼殿であったが、逃げる先から敵の別働隊が迫っており進退極まってしもうた。

交戦しても勝ち目がない中で、勝頼殿の自害の時間を稼ぐべく、一人で織田軍の前に立ち塞がり殿(しんがり)を務められた。

これによって勝頼殿は家族と共に自害することが叶い、昌恒殿も後に自害されたとのことである。

この時、昌恒殿が狭い崖道で落ちぬように片手で蔦を掴み、残る片手で敵を斬り続けたことから『片手千人斬り』の異名で呼ばれることとなり、切られた織田兵は崖下の川に落ちて川の水が三日間血で染まったことから三日血川と呼ばれるようになったそうじゃ。

忠義と武勇を持つ武士の鑑(かがみ)として、信長様もお褒めになったと『信長公記』に残っておる!

大政奉還まで名を残す

さて、昌恒殿が素晴らしきはこの後にある。

この天晴れな最期は天下に轟き、この話を知った徳川殿は落ち延びておった昌恒殿の遺児を保護された。

昌恒殿の嫡男・忠直殿は、徳川殿が寵愛した側室・阿茶局(あちゃのつぼね)に養育されたのじゃが、このことからも忠直殿が重く扱われたことがわかるわな。

そして徳川殿の天下となった後には久留里藩として取り立てられ、一国の藩主にまで成り上がったのじゃ。その後に久留里藩は改易となってしまうのじゃが忠直殿の次男が分家し土浦藩となり土屋家は大政奉還まで存続していくこととなる。

昌恒殿が為したのは武勇を持って家を守るの好例と言えるであろう!

己は主家のために命を賭し、更にそれによって一族を守る。家臣としても一族の当主としても正に模範。

あまり有名ではないが、皆に名前を覚えておいて欲しい武士である。

因みに昌恒殿が『片手千人斬り』を為した場所には碑が立っており、当時の姿を覗くことができる
因みに昌恒殿が『片手千人斬り』を為した場所には碑が立っており、当時の姿を覗くことができる

一族の仇を討った長連龍

読んでくれておる者の多くが、「なんて読むのかわからぬ」と思うたのではなかろうか。

この武士の名は『ちょう つらたつ』と読む。

そして、何を隠そう儂前田利家の家臣である!

元々長家は能登の守護であった畠山家の重臣であった。畠山家は清和源氏の流れをくむ名家であり、居城としておった七尾城は堅城として名が知れておった。

じゃが、名家であった畠山家も戦国の世にあってだんだんと力を失ってゆく。

更には当主の死が相次いだことで当主には幼年の春王丸が据えられ、実権は連龍の父・長続連(つぐつら)殿を筆頭に遊佐、温井、三宅といった重臣たちが握ることとなった。

そんな不安定な状況の中で越後の龍、上杉謙信殿が能登に侵攻を始める。

実質の国主であった続連殿は織田家に助けを求める為に連龍殿を遣わしたのじゃ。

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其の最中、七尾城にて大事件が起こる。

なんと、遊佐や温井、三宅らの重臣達が結託して実質の当主であった長一族を皆殺しにしたのじゃ。

かねてより畠山の家中は親織田派と親上杉派で割れており、上杉からの攻撃が始まったのを好機として親上杉派であった者たちが上杉に内応した次第である。

能登は上杉の領国となり、一族を失った連龍は信長様に仕えて能登の奪還を目指すのじゃが、この時から儂と連龍は北陸方面軍として行動を共にすることとなるのじゃ。

能登を追われた翌年に謙信殿が病死し、我らがこれに乗じて侵攻を始めると、連龍は自ら兵を集めるなど一族の仇を取る為に獅子奮迅の活躍を見せる。儂や佐々成政、佐久間盛政の功もあって七尾城を奪還し、上杉のもとで七尾城主となっていた遊佐続光を討ち取ることに成功したのである!

報復の完遂と、その後

そして儂は能登を信長様より賜って一国の領主となり、連龍も能登の一部を与えられて儂の与力として共に働くこととなった!

儂にとっても記憶に強く残る一幕であったのじゃが、温井や三宅はまだ残っておって連龍の報復劇は半ばである。

連龍に其の機会がやってきたのは本能寺の変の後に起きた石動山の戦い。

北陸方面軍である我らが、本能寺の変に乗じて蜂起した上杉と畠山の遺臣と戦った戦である。

この戦いにて上杉方として攻勢に出た温井景隆と三宅長盛の両名を我が前田軍と佐久間の連合軍が討ち取り、これにて連龍の敵討ちは果たされたのじゃ!

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その後は前田家の家臣として様々な戦で重要な役目を担うこととなり、賤ヶ岳の戦いにて秀吉と交戦した折には、敗走する我が隊の殿を務めて大きな犠牲を出しながらも無事帰還を果たす。

其の他の戦でも筆頭に近い働きを常に残し、儂にとってはなくてはならぬ将であった。江戸時代に入ると前田家を支え小藩主に匹敵する三万石もの知行を持つことになるのじゃ!

戦の他にも才があり、伏見城の築城の折に大いに活躍しておったりも致すぞ!

連龍についてはこれよりの戦国がたりでも必ず名前が出てくるで、今のうちに覚えておくが吉であろうな!

終いに

人物紹介の巻第三弾はいかがであったか?

魅力ある武士が数多おる中で皆に名を知らしめたい武士を選んで参った。ちいとばかり語りに熱が入ったが、楽しんでくれたならば嬉しく思う!

じゃが、まだまだ皆に知って欲しい武士がたくさんおる。

『どうする家康』でも徳川殿が秀吉の臣下となったことで新たに登場した重要人物が多く出て参ったでな、そういった者たちも紹介をしたいと思うておる!

皆々も楽しみに待っておるが良いぞ!

此度の戦国がたりはこの辺りで終い、

また会おう、さらばじゃ!!

 

取材・文・撮影=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)