チャンスが全くないわけではない。私も長年バンドをやっているおかげで時々は芸能人にお会いする。たとえば音楽フェスなどに出れば、アイドルと同じ楽屋になることもあるだろうし、人によってはそこで上手に話しかけて連絡先を交換し交際に発展するケースだってあるかもしれない。もっとも、私が話しかけたところでうまくいく可能性は低いだろう、それでも何百回かチャレンジしていたら1回くらいは付き合えたりするのではないか――いつもそんな想像をしてばかりで行動に移すことはないが、今までに一度だけ女優さんと本気でお近づきになろうとトライしたことがあった。

その女優さん(仮にAさんと呼ばせていただく)とはあるドラマの撮影で一緒の控え室になることが多かった。役者さんたちが仲良く談笑している輪に入っていけず、ひとり端っこでこそこそと文庫本などを読んでいる私に、Aさんは「なに読んでるんですか?」と話しかけてくれた。これはきっと、共演者と気まずくならない程度の関係性を築くために話しかける、プロの役者としての所作だ。その時はそう思ったが、撮影が何日か続くうちAさんが私に話しかける頻度が他の共演者に比べ高いことに気づいた。

何度か話しているとAさんの読書や音楽の嗜好が自分とけっこう近いとわかってきた。Aさんは世間的にはちょっとマニアックな作品や作家を好む、いわゆるサブカル女子とされるタイプの人だったのだ。なるほど。根が文化系のAさんは、人当たりがよくて快活な美男美女が多い映画やドラマの現場にどこか馴染(なじ)めず、そこに突然現れた独特の雰囲気をまとった男(私)に「え、こんな人出会ったことない」的な魅力を感じているのではないか。そんな妄想をしつつもAさんとの距離は縮まることのないまま撮影最終日を迎えた。

楽屋でふたりきりになった時、突然Aさんが「この現場で誰と一番話しました?」とたずねてきた。私はAさん以外とはほとんど誰とも話していなかったのだが、本人を前にそう答えるのが恥ずかしく「えー、誰ですかね……」とモジモジしていると、Aさんは「私は吉田さんと一番話しましたね」と迷わず言った。驚いた。もし本当にそうだとしても、それをわざわざ伝えてくるのは概ね好意の表明と受け取ってよいのではないか。私は赤面しながら「ええ、マジっすか……うれしいな」と馬鹿のような返答をしつつ、今日撮影が終わって帰るまでに思い切ってAさんを飲みに誘おうと決意した。

おめかししておく?

夕方5時、撮影は無事終了した。私が楽屋の端で誘い言葉のイメトレをしていると、女性メイクさんがAさんに「今日飲みに行く約束あるんでしょ?」と話しかける声が聞こえた。「せっかくだから髪巻いておめかししておく?」「えー、気合い入ってるみたいで恥ずかしいですよ」などとふたりではしゃいでいる。会話のテンションからして今夜デートにでも行きそうな雰囲気だった。私の知らないところでAさんはメイクさんに恋の相談をして盛り上がっていたのか。相手は誰だろう。もしかしてこの現場で出会った役者さんとか。いずれにせよ今夜Aさんを飲みに誘う計画は中止だ。私は、髪にリボンなどをつけいつもよりめかし込んだAさんに「じゃ、おつかれさまでした」とそっけない挨拶をすると足早に帰路についた。誇大妄想ですっかりその気になっていた自分が恥ずかしかった。

家についてひとりになるとやるせなさが増した。もっと早い段階で飲みに誘っておけば未来は変わっていただろうか。しかし私は連絡先さえ聞けなかったし、普通の生活に戻ればもうAさんと会うことは二度とないだろう。いや、まだ連絡を取る最終手段は残っている。AさんのSNSをフォローしDMで飲みに誘えばいいじゃないか。だが対面で飲みに誘えなかったくせにいきなりDMで誘うのはキモいんじゃないか。いや、それがどうした。今さらキモいと思われたところで、どうせもう一生会わないのならキモがられたっていい。そもそも会話の端々から私が勝手に邪推していただけで、デートに行くなどというのもただの勘違いかもしれない。Aさんの恋愛事情の正確なところなど知る由もないのだし、可能性がほんの数パーセントでもあるのなら思い切って誘ってみるべきではないか。

深夜、酒を飲んで気合いを入れた私は、Aさんのアカウントをフォローした。そして「撮影おつかれさまでした! 打ち上げもできなかったんで来週の火曜か水曜か土曜か日曜飲みに行きませんか?」と候補日多めのお誘いDMを送った。

シカトされる可能性も十分に考えられたが、Aさんは約1時間後にちゃんと返信をくれた。「火曜と水曜は仕事だし、土日は他の人と飲みに行くので行けません」と記されていた。「仕事で行けない」のはまあいいとして「他の人と飲みに行く」とかわざわざ言わなくてもよくないか。そこには「お前と飲みに行くわけねえだろ」という強い拒絶の意思を感じた。察した私は「うす。了解っす」と返信し、Aさんのフォローをそっと解除したのである。

縁結びの神様でドラマの聖地としても名高い浅草・今戸神社にて。
縁結びの神様でドラマの聖地としても名高い浅草・今戸神社にて。

文=吉田靖直 撮影=鈴木愛子
『散歩の達人』2023年8月号より

東京に住んでからは数えるほどしか海へ行っていない。電車を乗り継ぎ海へ着いた瞬間は楽しい気分になるが、ちょっと海に入ったりビールを飲んだりした後はもうやることがない。私はもともとそんなに海が好きではないのだろう。海に行くならプラスアルファで何かわくわくするような刺激が欲しいと思う。
20代後半あたりから地元の同級生がどんどん結婚し始めた。友人から結婚の報告があるたび「よかったな、おめでとう」と笑顔で祝福しつつ心の中では「ようやるわ」と思っていた。うらやましいと感じることもなかった。