私がそのことを知ったのは2019年、スピリチュアル好きの姉からここの名物として知られている「一陽来福御守」というお札を買って来るよう頼まれたのがきっかけだ。オリエンタルラジオの藤森氏もここのお札を部屋に貼ってからチャラ男キャラで大ブレイクしたらしい。そういうことなら私もぜひあやかりたいと考え、それ以降毎年長蛇の列に並んでは一陽来福御守を購入し続けている。にもかかわらず、現状の私は客観的に見てブレイクしたと言える状態にはない。なぜなら、私はこれまで一度も指定された通りにお札を貼ることができていないからだ。

この一陽来福御守にはいくつかルールがある。まず毎年2月の節分の日の夜中12時ちょうどに、年ごとに決まった方角へ向け、壁の高い位置に糊で貼りつけなければならない。この方角がかなり緻密で「北東と北北東との間のちょっと北東寄り」といった具合に非常に細かい角度に設定されていたりする。夜中12時ちょうど、というのも難しい。どの程度の正確さが求められているのか、何秒遅れたらアウトなのか、その辺りは説明されていない。とにかくここ数年、節分の日はアプリで方角を調べ、夜中12時になる直前から壁の前で待機。時報を聴きながら「3、2、1」とカウントダウンをして1秒のズレも生まないよう12時ちょうどに壁に貼る。そんなルーティンが出来上がった。さらに貼った後も安心はできない。うまく貼り付いておらず、数分後にポロっと床に落ちてしまったことが何度もあったからだ。いちど壁に貼ったお札は床に落ちたらその時点で無効。貼り直しても効果はない、というのが穴八幡宮の公式見解である。

そんなこんなで、今まで一度も神社の規定どおりにお札を貼れたことがない。ルールがシビアすぎると文句を言いたくもなるが、細かい決まりがあるからこそお札のパワーにも説得力を感じる。ハードルを乗り越え正しくお札を壁に貼ることができれば、きっとブレイクする。私はお札を購入し、並々ならぬ意気込みで2023年の節分の日を待った。

ところが問題が発生する。2023年は2月4日に我がバンドのワンマンライブがあり、その前日、2月3日の節分の夜にリハーサルをすることになっていた。そのリハ時間がいつもより長く夜中12時までだったのだ。まずい。これでは到底間に合わない。焦った私はスタジオに着いて早々、メンバーへ事情を話し「早めにスタジオ抜けていい?」と尋ねたが、「いいわけねえだろ」と突っぱねられた。その後しばらく説得を試みても「大事なワンマンの前日に何言ってんだ」と一向に聞き入れてもらえない。お札を貼った方がバンドにも見返りがあるのだが。スピリチュアルを解さない彼らがもどかしかった。

いよいよ諦めそうになった次の瞬間、友人のイケダの顔が脳裏に浮かんだ。イケダは高校時代の同級生で、今はいろいろあって私の隣の家に住んでいる。彼に頼めば私に代わってお札を貼ってもらえるのではないか。

お札はどこだ?

電話をかけて数十分後、イケダから折り返しの連絡がきた。即座にスタジオを抜け出し「忙しいとこゴメン、ちょっとお願いあるんやけど」と、一陽来福御守の概要、夜中12時ちょうどに貼ることの重要性、部屋のどの壁に貼れば指定の方位になるかを手短に伝える。イケダは「12時ちょうどに帰れるか際どいけど……」と若干心許ない返答ながらも「ま、やってみるわ」とすんなり受け入れてくれた。やはり持つべきものは友である。

リハを終え駅に向かう途中、LINEが届いているのに気づいた。「お札なんとか貼ってみたわ!」メッセージの送信時刻は夜中12時2分、きっと12時ぴったりに貼ってくれたはず。私は彼に心から感謝の意を伝え、安堵に包まれながら富士そばに立ち寄り、深夜1時ごろ家に帰り着いた。

ドアを開け室内をぐるりと見渡す。貼っておいてくれと頼んだ壁にお札が貼られていない。もう一度念入りに見直す。おかしい。部屋のどこにもお札が見当たらない。

電話に出たイケダは、「冷蔵庫の上に貼っといたで」と飄々(ひょうひょう)とした口振りで答えた。スマホを耳に当てたまま確認しに行けば確かにそこにお札はあった。家庭用大型冷蔵庫の少し上。死角になって見つけられなかったのだ。私は「あー、ほんまや。あったわ」と平静を装いながら、口から出そうになる言葉を必死に押し留めていた。「いや、ここじゃねえんだよ」

お札は私が貼ってくれと頼んだ壁ではなく、そこから垂直に連なる壁に貼られていた。方角が90度ずれている。それじゃ意味がない。そもそもなんで背伸びしないと届かないようなジメジメした冷蔵庫の陰にお札を貼るのか、そのセンスが理解できない。いや、イケダを責めても仕方がない。もう終わったことだ。それに間違えたとはいえイケダは私の唐突なお願いを快く聞いてくれたのだ。そう思いつつも「何度も説明したけどなあ!」と不満が口からあふれそうになり、私は急いで電話を切った。

間違った壁に貼られたお札を見上げながら、過去のイケダとの口論やデリカシーのない言動の数々を思い出した。そう言えば昔からあいつはちょっとおかしなヤツだった。とにかく今ここに残ったものは、今年もお札を貼ることに失敗したという事実のみだ。こうして私のブレイクはまた一年先送りとなってしまったのである。

穴八幡宮にて。
穴八幡宮にて。

文=吉田靖直 撮影=鈴木愛子
『散歩の達人』2023年4月号より

私が通っていた早稲田大学には当時数十もの音楽サークルがあったが、私がいたサークルは“オリジナル曲中心”を標榜していた点で他とは少し違った。ヒップホップ、ブラック・ミュージック、レゲエなどジャンルによって区別されているサークルが大半の中、実力はさておき、とにかく自分の音楽を作り、ひいてはその音楽で世に打って出たいという野心を持つ者が数多く属していたように思う。とはいえ、ごく一部の例外を除きその活動が世間に評価されることはない。サークル員たちはバンドを組み下北沢や新宿のライブハウスに毎月出演していたが、全く芽の出る気配のない数年を経た後も音楽を諦めきれず、またはサークル内の退廃的な空気に流され1年か2年留年した後、結局は普通に就職してそのうちバンドをやめてしまうパターンが大半だ。就活に力を入れて来たわけではないため有名な大企業に入社できるような者はほとんどおらず、大体は適当な中小企業に就職する。私も音楽で世に出るという野望を隠し持ってサークルに入ったクチではあるが、やはり1年留年して卒業する時期になっても音楽で食っていく道は全く開けていなかった。才能はなくともバンドを諦めて実家に帰るのはどうしても受け入れがたく、東京に残る口実として仕方なく小さなIT企業に就職したものの、全く適性がなく1年半で離職。その後、バイトを転々としながらのらりくらりとバンド活動を続け、今に至る。あの頃はバンドをやめて就職することが人生の敗北を意味するようにさえ感じていたものだが、30代も半ばになるとそんな熱っぽい考えも消えた。音楽家として生きていくことと、会社に就職して生きていくことの間にそこまで大きな隔たりがあるようにも今は思えない。もっとも、それは私が人一倍長い時間バンドにしがみつき、こうして媒体で時々自分の思うところを書かせてもらったりしているおかげで、表現欲や承認欲求といったものが多少は満たされているせいかもしれない。だが収入面でいえば、あの頃サークルにいた面々の中で現在の私は最下層になるのだろう。私の知る限り最も経済的に成功しているのは、「SUSURU TV.」というYouTubeチャンネルの運営会社の代表をつとめる矢崎という男だ。
20代後半あたりから地元の同級生がどんどん結婚し始めた。友人から結婚の報告があるたび「よかったな、おめでとう」と笑顔で祝福しつつ心の中では「ようやるわ」と思っていた。うらやましいと感じることもなかった。